[被爆80年] 小屋浦の慰霊碑 起源・歩み年表に 胎内被爆者西谷さん手作り
25年8月8日
「歴史伝える助けに」
坂町小屋浦の公園にある原爆慰霊碑の管理を続ける近くの胎内被爆者西谷敏樹さん(79)が、碑の由来を紹介する年表を公園の掲示板に掲げた。地元の青年団が原爆投下の翌年に追悼の木柱を建てたことや西日本豪雨禍で移転したことなど、起源や歩みをたどる。被爆80年を機に、小屋浦と原爆の関わりを記憶にとどめようと手作りした。(石川昌義)
「小屋浦原爆慰霊碑の歴史」と題して大判の紙にまとめた。解散した小屋浦地区の被爆者団体の役員を務めた西谷さん。被爆者運動の先輩が残した資料などから慰霊碑に関する記述を整理、集約したという。
碑の前身の木柱は1946年の初春、教員が「原子爆弾死没者之霊」と墨書し、地元の青年団と協力して呉線の線路沿いの山裾に建てたとされる。同年夏に木柱の周囲で草取りをした青年団や、87年に同じ場所に石碑を建てた住民たちの集合写真も添えた。2018年の西日本豪雨で被災した石碑を翌年、公園へ移設した経緯も記した。
6日朝、碑前であった地域の追悼行事に合わせて掲示した。慰霊碑の背後には、小屋浦小の児童が文案を考えた「笑顔でつくる 平和な未来」との横断幕も掲げられた。
広島市が刊行した広島原爆戦災誌によると、同地区には小屋浦国民学校(現小屋浦小)や、陸軍船舶部隊(暁部隊)の野戦病院となった小屋浦海水浴場に被爆者が運び込まれ、約190人が火葬・埋葬された。参列者に慰霊碑の歴史を伝えた西谷さんは「碑に込めた願いを風化させず、地域の原爆の歴史を末永く伝える助けにしてほしい」と願っていた。
(2025年8月8日朝刊掲載)








