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被爆80年託す想い 榊安彦さん 父と姉みとれず 母の無念 「僕に責任」やるせなく

 長崎市の榊安彦さん(88)は米軍による長崎への原爆投下で大けがを負い、父や姉を失った。自らを助けようと奔走していた母は、2人の最期に立ち会えなかった。「僕に責任がある」。80年前、家族の死を知って崩れ落ちた母の姿を思い出すたび、今もやるせなさが込み上げる。

 1945年8月9日、榊さんは爆心地から北に1・5キロの自宅の縁側で、兄が将棋を指す様子を横で友人と見ていた。午前11時2分、原爆がさく裂。「雲から太陽が出たような明るさを感じた瞬間、気を失った」。訳が分からぬまま、額に子どもの拳が入る大きさの傷ができ、腕をやけどしていた。

 兄は無事で、母ソラさん(74年に79歳で死去)は血だらけの榊さんを背負い、やけどを負った榊さんの友人の手を引き防空壕(ごう)へ。「2人をからいきらんけん、我慢せんね(2人を背負えないから、我慢して)」。ただ、友人は家族に引き渡された後、亡くなった。

 防空壕には、けがをした姉フミ子さん=当時(15)=がいた。容体が悪く、その日夜、別の姉が付き添い救援列車で救護所へ向かった。母は残り、爆心地近くの職場から帰らない父安五郎さん=同(54)=を待った。翌日、母子も救援列車で長崎県諫早市の救護所に向かう。2人に会えるというかすかな期待もあったが、かなわなかった。

 フミ子さんは車内で息絶え、着いた先の寺で火葬されていた。父は畑で遺体が見つかり、やはり荼毘(だび)に。救護所から戻る途中で知人から夫の死を告げられた母は、その場で座り込み立ち上がれなくなった。「末っ子の僕の面倒に追われたばかりに、最期の別れすらできなかった。どれほど無念だったか」

 防空壕で姉の大やけどを見て思わず「気味悪か」と口走ったことも悔やむ。すべて原爆がなければと頭で分かっていても、割り切れない思いを抱える。父が被爆時に携行していた家族構成や蓄えの状況を記した手帳を「家宝」として保管する。「何かあった時のためにと、書いていたのでしょう」。手帳をめくると、家族思いの父の姿が思い浮かぶ。

 会社を定年退職後、請われれば惨禍を証言してきた。手記も書き、ことしは中国新聞、長崎新聞、朝日新聞3社の合同アンケートに応じた。額には今も傷痕が残る。「戦争をして、核兵器を使えばどうなるか。この体験を知っても、まだ分からないのかとも思いますが、伝え、行動してもらわないと」

 9日は姉の通った学校の慰霊祭に参加し、家族が眠る墓に手を合わせる。80年前のあの日、生かされた者の務めを感じながら、祈り、語り継ぐ。(下高充生)

(2025年8月9日朝刊掲載)

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