『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <4> 終戦
25年8月9日
戦争協力 苛烈なまでの悔い
≪終戦時は国民学校1年生。母、姉たちと父・市郎の古里、君田村(現三次市)で迎えた≫
広島壊滅の報が入り、皆で父の安否を心配していました。学生たちの懸命な看護を受けた後、君田に戻ってきたのが1945年8月20日。姉たちと川で水遊びをしていた時でした。本当にうれしかった。姉は後に、広島大の長田新教授らが募集した作文で「顔を包帯でぐるぐる巻きにして、片方の目だけをたよりにつえをつきながら、道の向こうからやって来る父の姿」を見つけた瞬間を振り返っています。51年刊行「原爆の子」(岩波書店)に収録されています。
終戦の翌月、父は吉舎町(同)の星田眼科に入院。母と兄が広島市内を見に行き、教員と学生の甚大な犠牲を伝えると衝撃を受けていました。
右目に次いで左目も失明する危機が続く中、若者を戦争に動員した教育者、研究者としての苛烈なまでの反省と悔い、思索を病床で重ねた時期です。軍国主義や原爆使用に象徴される「力の文明」から決別し、「慈の文化」を求める境地を見いだした。戦後を生きる父の思想的な土台を形成したと思います。
≪自己批判と戦争否定とは矛盾するような「正直さ」も、父にはあった≫
天皇に命をささげるのは当然とされた戦争への深い反省がありながら、昭和天皇が広島を訪問した戦後の47年に「喜び満つ」と日記に記しています。天皇と誕生日が1日違いで、うらやましがられて育ったそうです。特に母と兄は「自己矛盾だ」と批判していました。
ところが71年に勲三等旭日中綬章を受けた際、父は「要りもせんものが来た」と勲記の額をごみ箱に捨てたんです。さすがに驚きました。「国が嫌がる平和運動ではなく、戦前の行いが評価されたのだろう」とも。権威への反発を貫きながら、生きた時代ゆえにどうしても湧き起こる感情があることも認める。どちらも父らしいと思います。
(2025年8月9日朝刊掲載)