緑地帯 中沢啓治 「はだしのゲン」と私④ 反響と揺れる心
25年8月9日
「黒い雨にうたれて」は発表された。反響が大きかった。面識もない漫画家のT氏は読み終わってすぐ編集部に電話で「よくやった」と激励してくれ、その声は涙声で震えていた、と編集長が知らせてくれた。
読者からも、編集部には、めったに手紙が来ないが、私あてに数通来て励まされ、他誌の編集者は、初めて原爆の事実を知り、読んでいるうちに怒りで震えたよ、と、内心を話してくれた。私は勇気づけられ、続いて5編「黒いシリーズ」として夢中で描き、怒りを吐き出した。
私は、本来、児童漫画が描きたくて少年向け週刊誌「少年ジャンプ」に場所を変えた。原爆問題に理解を示すN編集長に出会ったことも大変めぐまれ、幸運だった。当時としては異例な80ページのページ数を私の作品にくれ、少年向けに原爆のテーマを取り入れ、「ある日突然に」と言う被爆二世を扱った作品に取り組んだ。
このころ、私の子供も4歳を迎え、広島と長崎で被爆二世が死亡したと報道され、不安な気持ちだった。作品も一歩間違えば大変な誤解を招くことになると思ったが、事実は冷静に受け止めなくてはと思い、自分の子供が、その立場になった時の父親の気持ちを通して描いた。
描いて行くうちに気持ちがめいり、つらくて、原爆の漫画はもう描くまいと思った。当時、百万の部数を誇っていた「少年ジャンプ」の反響はすごかった。1日に何十通となく会社員、主婦、大、高、中、小学生からの手紙が舞い込んだ。
原爆の実相を初めて知った声が圧倒的で、高校生からの漫画で政治が変えられる、といった発言に苦笑したり、新潟の小学校の先生は、生徒が私の掲載誌を読んでいて怒ったところ、私の作品を読めと見せられ、愕然(がくぜん)として読み、原爆の副読本にピッタリで夏休みに私の漫画を見せながら生徒に原爆の話をしたところ、理解が早く、副読本の使用を許してくれと手紙が来た。
N編集長は、1週間もかけて核問題の大会を開き討議するより、私の漫画を読めばだれでもわかると励ましてくれた。だが、私には原爆テーマの漫画は苦痛になって来た。女房も自分の身をさらすようでいやだからやめてくれと言い、原爆漫画家とレッテルを張られるのがいやでやめようと思った。(漫画家)
被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。
(2025年8月9日朝刊掲載)
読者からも、編集部には、めったに手紙が来ないが、私あてに数通来て励まされ、他誌の編集者は、初めて原爆の事実を知り、読んでいるうちに怒りで震えたよ、と、内心を話してくれた。私は勇気づけられ、続いて5編「黒いシリーズ」として夢中で描き、怒りを吐き出した。
私は、本来、児童漫画が描きたくて少年向け週刊誌「少年ジャンプ」に場所を変えた。原爆問題に理解を示すN編集長に出会ったことも大変めぐまれ、幸運だった。当時としては異例な80ページのページ数を私の作品にくれ、少年向けに原爆のテーマを取り入れ、「ある日突然に」と言う被爆二世を扱った作品に取り組んだ。
このころ、私の子供も4歳を迎え、広島と長崎で被爆二世が死亡したと報道され、不安な気持ちだった。作品も一歩間違えば大変な誤解を招くことになると思ったが、事実は冷静に受け止めなくてはと思い、自分の子供が、その立場になった時の父親の気持ちを通して描いた。
描いて行くうちに気持ちがめいり、つらくて、原爆の漫画はもう描くまいと思った。当時、百万の部数を誇っていた「少年ジャンプ」の反響はすごかった。1日に何十通となく会社員、主婦、大、高、中、小学生からの手紙が舞い込んだ。
原爆の実相を初めて知った声が圧倒的で、高校生からの漫画で政治が変えられる、といった発言に苦笑したり、新潟の小学校の先生は、生徒が私の掲載誌を読んでいて怒ったところ、私の作品を読めと見せられ、愕然(がくぜん)として読み、原爆の副読本にピッタリで夏休みに私の漫画を見せながら生徒に原爆の話をしたところ、理解が早く、副読本の使用を許してくれと手紙が来た。
N編集長は、1週間もかけて核問題の大会を開き討議するより、私の漫画を読めばだれでもわかると励ましてくれた。だが、私には原爆テーマの漫画は苦痛になって来た。女房も自分の身をさらすようでいやだからやめてくれと言い、原爆漫画家とレッテルを張られるのがいやでやめようと思った。(漫画家)
被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。
(2025年8月9日朝刊掲載)