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秘された手記 愛の追憶 元広島女学院大学長の小黒薫さん、被爆死の妻子しのぶ

長男が復刻 デジタル誌に寄稿

 キリスト教の神学者で広島女学院大学長も務めた小黒薫(おぐろかおる)さん(1914~2004年)は、広島の反核運動をけん引した森滝市郎さんと共に、平和記念公園(広島市中区)で核実験に抗議する座り込みを重ねた一人だ。その小黒さんが戦後間もなくにまとめ、長く家族の間ですら語られなかった手記がある。被爆80年のことし、長男で同志社大大学院教授の純(じゅん)さん(64)が復刻し、デジタル誌に寄稿した。(道面雅量)

 「園子(そのこ)追憶」と題した1950年の手記。私家版の小冊子で、当時の知人友人にわずかな部数が配られたとみられ、遺族の元に1冊が残っていた。

 「生前の父からは全く聞かされたことのない話が書かれている」と純さん。ただし一度だけ、母睦恵(むつえ)さんからは、高校卒業の間際にこう伝えられたという。「パパには昔ね、家族があったんよ。原爆で、パパの奥さんと小さい赤ちゃんが死んじゃったんよ」「びっくりせんでよ。死んだ子どもの名前は、あんたと同じ『純』なんよ。でも女の子。女の子で『純』」

 「園子」は薫さんの前妻の名だ。薫さんは53年に睦恵さんと再婚する際、「前の家族のことを持ち込まない」と約束したという。睦恵さんとの間に生まれた純さんや姉も両親の思いをくみ、事情を知った後も話題にすることはなかった。純さんが今回、手記の復刻を決めたのは、3年前に睦恵さんが亡くなったことを区切りと考えたからだ。

 「亡くした妻子への純愛が臆面もなく語られている。でも、あの時代にもこうした家族の幸せがあったことは普遍的で、読んでもらう価値があると考えた」

 手記は冒頭、「私共三人をこの世にあつて結び合せ給(たも)うたクリストへの献歌」である旨が記され、2人が愛を育んだ軌跡がつづられていく。東京の教会での「心が閃(ひらめ)き交(かわ)す様な」出会い。「石油箱に一つ位は溜(たま)つた」手紙のやりとり。ドイツ語やギリシャ語に親しみ、薫さんを「カール」と呼んだ園子さんの私信の写しも交える。

 2人は42年に結婚、広島に移って共に広島女学院の教員となった。しかし、新婚生活が10カ月に満たないうちに薫さんは2度目の召集を受け、中国へ送られる。

 45年7月、東京に配転となった薫さんは、広島に短い帰宅を果たした。原爆が落とされる3週間前。最後に園子さんとこんな会話を交わしたとある。2人とも31歳、娘の純さんは2歳だった。

 ≪「日本は負けるよ、僕の生命も今年一杯と思つていていゝね」「ぢや本は?」「二度と開ける事ないから、もう要らないよ」「私が先に死ぬかも知れないけど、その時は純もつれていつていゝ?」「あゝいゝとも。その方がお互いにいゝだろう。」≫

 8月6日、同僚の教員宅へ向かって被爆したと思われる園子さんと純さんは、消息を絶った。薫さんが広島に帰ることができたのは終戦後だったようだ。

 ≪最後に園子と純が住んでいたと云(い)う女学院の一隅に、本の焼けた白い灰の堆積を手でかき分けて、純のために半かけらの黒パンと園子のために一本の唐黍子(とうきび)と一枚のスルメを埋めて合掌した八月の末であつた。軍曹の階級章も、襟から外して埋めてやつた。≫

 薫さんは手記を書き上げてすぐ、米国に留学。52年、広島女学院大に復職して聖書学などを教えた。

 薫さんが核実験に抗議する座り込みを始めるのは学長を退いた78年から。以後10年余りの間に200回を超えたという。中国新聞の取材に何度も応じているが、どの記事を見ても、かつての妻子を原爆で失ったことを明かしていない。

 純さんは当時、新聞などで報じられる父の姿を「黙って座り込むのに意味があるのかと、冷めた目で見ていた」。しかし、実家で眠っていた手記に向き合い、園子さんの生涯も調べていく中で、思い返してもいる。原爆慰霊碑を背に座る父の写真には「園子さん、もう一人の純さんが一緒にいる」と。

 デジタル誌「季刊 現代の理論」の最新号(第42号)に手記を寄稿、サイトで公開している。「ヒロシマ、神学者が綴(つづ)った悲歌と愛」と題した解題を添えている。

(2025年8月18日朝刊掲載)

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