『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <7> 原水爆禁止運動
25年8月16日
「生きていてよかった」に胸打たれ
≪1951年に千田小を卒業し、現在の広島大付属中高で6年間学んだ≫
54年に米国の水爆実験で第五福竜丸などが被曝(ひばく)し、原水爆禁止の声が大きなうねりとなった時期と重なります。杉並区(東京)の主婦たちが始めた署名運動が空前の広がりを見せ、父市郎も広島で推進を指揮します。母しげは自宅に近い五日市(現佐伯区)の商店街で署名集めに走り回りました。
それが55年の第1回原水爆禁止世界大会の開催と、日本原水協の結成につながります。広島大会の実行委員長だった父に付いて、舞台の袖から大会を見ました。終了後、原爆で深い傷を負った女性が父に駆け寄り「生きていてよかった」と口にしていました。胸を打たれました。
≪自分自身でも活動を始めた≫
校内で「高校生による原爆資料紹介の会」を結成し、仲間と被爆体験の聞き取りや資料集めを重ねました。原水爆禁止運動はもちろん、映画「無限の瞳」(55年)が活動のきっかけです。
広島で被爆した9年後に白血病で倒れた成城高(東京)の生徒、千葉亮さんを救おうと同高生徒会が自主制作した記録映画です。病床の千葉さんと、輸血に必要な募金活動に奮闘する同級生の姿、願いが届かず亡くなった千葉さんの遺志を伝えています。全国に反響が波及し「私たちも広島からすべきことを」と志したのです。
56年10月、広島刑務所の刑務作業で印刷してもらった活動報告を作成。私は「高校生自身が一つの大きな平和の護(まも)り手となり得る」と寄稿しました。
その頃、父は日本被団協の結成にも関わっていました。「かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」。この結成大会宣言は、父の筆による一節です。昨年日本被団協がノーベル平和賞を受賞し、原点の言葉に再び光が当たっていると感じます。
(2025年8月16日朝刊掲載)