先人思い 不戦の誓い新たに 戦没者追悼式 中国5県 遺族273人参列
25年8月16日
東京都千代田区の日本武道館で15日あった政府主催の全国戦没者追悼式に、中国5県からは遺族273人が参列した。「二度と戦争はしてはならない」「穏やかに暮らせる今に感謝したい」。終戦から80年の節目に若くして命を落とした先人を思い、不戦の誓いを新たにした。(宮野史康、中川雅晴)
広島県を代表して献花した三阪勝則さん(80)=福山市=は、父光雄さんをしのんだ。39歳で宇品港(広島市南区)をたち、激戦地のフィリピンのルソン島で安否不明になった。家族は戦後の貧しい暮らしを生き抜いた。「悲しみを繰り返してはならない」と、反戦の思いを込めた。
山口県代表の小倉淑夫さん(84)=山口市=は今の北朝鮮に生まれ、旧ソ連の参戦で南に逃れた。父末男さんは29歳で、英領インド北東部の攻略を目指したインパール作戦の犠牲になった。兄も戦死した。ことしから小学校での証言を始め「戦争のない社会をつくってもらいたい」と託す。
島根県代表の石原道夫さん(86)=奥出雲町=は兵士と物資を輸送していた父一雄さんが太平洋の洋上で死亡した。31歳だった。6月に日本遺族会主催の洋上慰霊に参加し、「戦争の経験と思いを多くの人に語っておきたい」と誓う。
岡山県を代表して献花したのは羽根岡洋子さん(86)=岡山市北区。兄基衛さんは26歳の時、南太平洋ブーゲンビル島で戦死。自身も1945年6月の岡山空襲で火の海の街中を逃げ惑った。「戦争のつらさが若い人に伝わっているだろうか」と、継承の重要性を説く。
鳥取県代表の門脇静枝さん(80)=米子市=は、24歳だった父吉岡賢一さんをルソン島で失った。母千代枝さんのおなかには門脇さんがいた。「損な時代に生まれた」。戦後、旅館に住み込んで働いた千代枝さんのつぶやきが忘れられない。
広島市東区の村田英美さん(62)は、原爆死没者の遺族を代表して花を手向けた。当時25歳だった祖母マサエさんが広島県産業奨励館(現原爆ドーム)へ働きに出たまま消息を絶った。原爆を語り継ごうと、7月から広島市の研修を受けている。「核兵器が使われないように」と決意する。
青少年代表として献花したのは岡山市北区の河原正太郎さん(16)。曽祖父穣さんが33歳で南シナ海で戦死。「戦争の犠牲の上に今がある。自分の人生をしっかり生きていく」と前を向いた。
東広島市の田代彩心(あみ)さん(15)は、石破茂首相に献花の花を手渡した。昨年、曽祖父岡本千歳さんが命を落とした硫黄島で慰霊祭に参加した。「罪のない人が不幸にならないよう、できることを見つけたい」と決意した。
(2025年8月16日朝刊掲載)
広島県を代表して献花した三阪勝則さん(80)=福山市=は、父光雄さんをしのんだ。39歳で宇品港(広島市南区)をたち、激戦地のフィリピンのルソン島で安否不明になった。家族は戦後の貧しい暮らしを生き抜いた。「悲しみを繰り返してはならない」と、反戦の思いを込めた。
山口県代表の小倉淑夫さん(84)=山口市=は今の北朝鮮に生まれ、旧ソ連の参戦で南に逃れた。父末男さんは29歳で、英領インド北東部の攻略を目指したインパール作戦の犠牲になった。兄も戦死した。ことしから小学校での証言を始め「戦争のない社会をつくってもらいたい」と託す。
島根県代表の石原道夫さん(86)=奥出雲町=は兵士と物資を輸送していた父一雄さんが太平洋の洋上で死亡した。31歳だった。6月に日本遺族会主催の洋上慰霊に参加し、「戦争の経験と思いを多くの人に語っておきたい」と誓う。
岡山県を代表して献花したのは羽根岡洋子さん(86)=岡山市北区。兄基衛さんは26歳の時、南太平洋ブーゲンビル島で戦死。自身も1945年6月の岡山空襲で火の海の街中を逃げ惑った。「戦争のつらさが若い人に伝わっているだろうか」と、継承の重要性を説く。
鳥取県代表の門脇静枝さん(80)=米子市=は、24歳だった父吉岡賢一さんをルソン島で失った。母千代枝さんのおなかには門脇さんがいた。「損な時代に生まれた」。戦後、旅館に住み込んで働いた千代枝さんのつぶやきが忘れられない。
広島市東区の村田英美さん(62)は、原爆死没者の遺族を代表して花を手向けた。当時25歳だった祖母マサエさんが広島県産業奨励館(現原爆ドーム)へ働きに出たまま消息を絶った。原爆を語り継ごうと、7月から広島市の研修を受けている。「核兵器が使われないように」と決意する。
青少年代表として献花したのは岡山市北区の河原正太郎さん(16)。曽祖父穣さんが33歳で南シナ海で戦死。「戦争の犠牲の上に今がある。自分の人生をしっかり生きていく」と前を向いた。
東広島市の田代彩心(あみ)さん(15)は、石破茂首相に献花の花を手渡した。昨年、曽祖父岡本千歳さんが命を落とした硫黄島で慰霊祭に参加した。「罪のない人が不幸にならないよう、できることを見つけたい」と決意した。
(2025年8月16日朝刊掲載)