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連載・特集

緑地帯 中沢啓治 「はだしのゲン」と私⑦ 「ゲン」のようになりたい

 「はだしのゲン」は、1年半にわたって連載され、原爆投下後の物語になると、担当の編集者さえ気味悪がった。私は、読者が読んでくれないのではないかと思い不本意ながら、かなりセーブして描いた。読者からは反対に、どんな残酷場面も描け、私たちは読む。読まなくてはいけないと、手紙を多くもらい、シリをたたかれ、勇気づけられた。

 160万の発行部数になった週刊「少年ジャンプ」の力は、驚くほど浸透力があった。あらゆる層からの手紙が来た。戦後生まれの層からは、圧倒的に戦争と原爆の恐ろしさを知り、絶対にいやだ、と言う声がやはり多く、高年層からは、戦争を反省する声と「ゲン」の漫画で戦争体験の親子の対話になっていると励まされ、疲れ切って連載をやめたい気持ちが吹き飛ぶ思いだった。

 広島市に住み、自分の街が破壊されたことも知らず驚いていた小学生の手紙もあり、戦後30年近く過ぎれば風化して行くのは当然だが、広島の原爆式典は、なんのためにやっているのかと疑問に思った。連載の後半になると、私の持ち分のページ数が削られだし、表現の展開に私は苦しんだ。オイルショックの紙不足をきっかけに連載を中断させられ、一段と数量を削られ、私はクサった。

 同誌で描いた沖縄をテーマにした漫画と原爆を扱った短編を単行本化して発行する予定が印刷の輪転機が回る寸前で止められ、中止になり、編集部では、出す意欲があるが、時の政府に反対する漫画は出せないと上部から圧力があったことを知っていたから「ゲン」もその傾向があるのではないかと勘ぐった。

 そんな不信と1年半も描いている疲れと、原爆の重苦しいテーマにすっかり気持ちがめいり編集長の交代を機に「ゲン」の連載を中止した。「ゲン」の物語は現代まで成長させ描く予定が序の部分で中断した。いやで仕方のなかった原爆のテーマを1年半も連載出来たのは読者からの800通以上の手紙とN編集長のお陰(かげ)だと感謝している。

 何百万人という読者が、私の未熟な作品で戦争と原爆の実相に少しでも触れてくれ、「ゲン」のようになりたいと言ってくれたのには、描き手冥利(みょうり)につきて頭が下がる思いだ。そして、俗悪誌の良さをつくづく感じた。(漫画家)

 被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。

(2025年8月15日朝刊掲載)

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