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[戦後80年 県北] 国策で銅を採掘 戦争の痕跡刻む 向原 有留地区の鷹山鉱山跡

 こけむした石垣やコンクリートの構造物が山の急斜面に連なる。安芸高田市向原町の有留地区の鷹山鉱山跡。麓から林道を2キロほど登った標高500メートル付近に太平洋戦争中の痕跡が残る。r>r>  「戦時の国策として採算度外視で銅を採掘したんです。日本は資源が乏しく、武器にするために家の鍋や釜まで出しましたから」。同市歴史民俗博物館の秋本哲治副館長(49)が説明する。6月末まで開いた地域の戦争時代を振り返る企画展に合わせ、鉱山跡の見学会を企画。市内外の約15人と現地を見て回った。r>r>  鷹山鉱山の歴史は江戸中期にさかのぼる。明治期からさまざまな経営者が関わり、太平洋戦争さなかの1943年に採掘が本格化。連なる石垣の上に選鉱場の木造建物が並んだ。変電所や宿舎も備え、地元住民や朝鮮半島の労働者たち約千人が1日5トンの銅を生産。さながら「鉱山町」のようだったという。r>r>  有留地区の沼竹靖夫さん(73)の母親も事務職として勤めた。「鉱山は現金収入を得られる貴重な働き口。近所の女性たちも労働者の食事作りなどで働いたそうです」r>r>  しかし、国策の銅採掘は敗戦で幕を閉じた。沼竹さんは幼い頃、地元住民と鉱山跡に登った記憶がある。「現金になる鉄くずを拾いにね。まだ貧しかったんですよ」。友達と遊んだ削平地も今や山に返りつつある。「戦争の頃、今じゃ想像もつかんことをしとった。埋もれさせずに知ってもらいたい」と願う。r>r>  有留地区に実家がある益田智さん(51)=広島市安佐北区=も同じ思いを抱く。「向原町誌」や国立国会図書館(東京)の記録を独自に調べ、鷹山鉱山の歩みを年表などにまとめてきた。r>r>  「こんな山あいに短期間で地域も巻き込んで開発した。国を挙げての総力戦だったんだと痛感します」と益田さん。「歴史が曖昧にならないよう資料や情報を整理して次代に伝えることができたら」とも話す。r>r>  安芸高田市内では太平洋戦争末期の45年6~8月、今の八千代町で旧海軍航空隊の特攻基地「根野飛行場」の建設も進んだ。県北一帯の人々を動員した突貫工事。現在の国道54号の直線道路は滑走路の名残という。r>r>  根野飛行場や鷹山鉱山などに光を当てた企画展をきっかけに、戦時中の品々や記憶が住民から市歴史民俗博物館に寄せられた。「地域ごとに残る戦争の歴史を一つ一つ明らかにしないと。しっかり受け止め、つないでいくためにも」と秋本副館長は力を込める。(林淳一郎)r>r> (2025年8月15日朝刊掲載)

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