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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 戦争トラウマ 全体像解明し 悲劇止める力に

■論説委員 森田裕美

 海軍の街・呉市で少年時代を過ごした藤本黎時・元広島市立大学長(93)=安佐南区=は80年前、海軍大尉だった父親にこんな言葉を投げかけられたという。「そろそろ戦死してほしいと思っているんじゃないか」。戦艦大和と運命を共にした父が出撃する直前のこと。「死なないでほしいに決まっているが、戦死が栄誉とされる時代に死なないでと言えず、答えに窮して…」

 藤本さんの戦争体験を聞かせてもらった際、明かされたエピソードに胸が詰まった。どんな思いでわが子にそんなことを問うたのだろう。死と隣り合わせの戦争で、藤本さんの父もまた、心に傷を負っていたのではないか―。戦争がもたらす心的外傷(トラウマ)に関心を持って取材を続けていることもあり、そんな考えに及んだ。

 為政者がどんな大義名分を並べようとも、戦争は「死」であり殺し合いだ。苛烈な暴力にさらされ、癒え難いトラウマを負った旧日本軍兵士は少なくなかったはずである。それが精神疾患や障害として現れた人は相当数いたとみられる。診断はされずともアルコール依存や家族への暴力、暴言となって戦後の暮らしに影響を及ぼしたケースもあったろう。

 現に、ベトナム戦争やイラク戦争によって心的外傷後ストレス障害(PTSD)などを発症した米兵らの「戦争トラウマ」については、映画などの題材にもなり広く知られてきた。ところが日本でこの問題に目が向けられるようになったのは、近年になってからだ。

 研究者による地道な検証や、元兵士の家族たちの証言活動によって問題が少しずつ可視化されてきた。「自分の親もそうだったのかもしれない」と語り始めた人もいる。

 大きな役割を果たしているのが「PTSDの日本兵家族会・寄り添う市民の会」の黒井秋夫代表(76)だ。かねて取材してきたのだが、近年の活動の広がりについて改めて聞きたくて先月、東京都武蔵村山市の交流拠点を訪ねた。

 黒井さんの父・慶次郎さん(1990年死去)は2度にわたる召集で旧満州(中国東北部)などに従軍した。戦後は定職に就かず、無気力でほとんどしゃべらない。黒井さんはそんな父を軽蔑し嫌ってきたという。転機は2015年末、妻と乗船した「ピースボート」の学習会で見た映像。PTSDに苦しむベトナム戦争帰還兵の姿が亡き父と重なった。

 遺品などから父の足跡をたどるうち「抜け殻のようだった父は戦争でPTSDを発症していたのではないか。実は多くの日本兵が戦争で心を壊されて家庭に戻り、家族を苦しめていたのでは」と思うに至った。18年にたった1人で「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」を立ち上げ、20年には自宅脇に小さな交流拠点を建て、発信してきた。

 自身の体験を公にすると、似たような悩みを抱える子世代から次々連絡が来るように。復員した父からの虐待、アルコールなどへの依存や暴力…。家庭が崩壊し、家族が心を病んだケースもあった。

 研究者らも含め、関心を寄せる人が広く参加できるよう、23年に会を現在の名称に。東京、大阪をはじめ広島などでも集会や講演の場を設けてきた。緩やかにつながる活動は今、全国に広がる。

 敗戦から80年を経て、なぜなのか。黒井さんからは「親が生きている時には向き合いにくいものかもしれない」と返ってきた。兵士だった父や祖父が亡くなり、自身も年を重ねる中、誰かの証言に触れ、戦争の影に気付かされる現実もあろう。会で語り合うことで癒やされる人もいる。

 ただ公に語れない人は多い。手記執筆を呼びかけると、泣きながら書く人やどうしても書けない人もいるという。「家族の苦悩は今も続いている。ひとたび戦争をするといかに尾を引くか。傷を連鎖させないため二度と私たちは銃を取らないと誓う国民的運動にしたい」。黒井さんの言葉は重い。

 国は昨年、遅ればせながら戦争トラウマに関する初の実態調査に乗り出した。精神疾患の兵士の治療拠点だった旧軍病院のカルテや体験記を収集、調査。今夏、厚生労働省所管の戦傷病者史料館「しょうけい館」で簡易ながら元兵士の戦争トラウマについてのパネル展示も始まった。

 だが調査の対象は、すでに国が戦傷病者と認める人で「亡き父が抱えていた問題は戦争トラウマだったのでは」と後に気付いたようなケースは含まれない。受診に至らなかった事例も含め、全体像を解明していくべきだ。

 戦争を体験した家族が亡くなっても、そのトラウマは、多かれ少なかれ今の世代に影響している。子や孫世代が家族を通して過去を省みることは、戦争の記憶を受け継ぎ、新たな悲劇を抑止する力になるはずである。

(2025年8月14日朝刊掲載)

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