緑地帯 中沢啓治 「はだしのゲン」と私⑥ 路地裏を駆け回る分身
25年8月14日
「ゲン」ではそれまでに反省してきたこと、本当に描きたかった省略部分を取り入れようと思った。日本側の戦争の引き金を引いた戦争指導者の動きと、好戦的に仕立て上げられ、踊らされた国民の姿と、アメリカ側の実に周到な計画で原爆が開発され、原爆の地獄図が造り出されて行く過程を描きたかった。だから「はだしのゲン」の物語の始まりである戦時中の部分を私は一番、力を入れて描いた。
ゲンの父親は、反戦的な思想と言動を取って戦争のばかばかしさをゲンに教えるが、実際に私の父も新協劇団に属し、反戦的な思想を持ち、官憲に捕まって5カ月間、拘置され、歯がガタガタになった。帰って来た父のその姿を幼い私は覚えている。そして激論の末、町内会長を追い返していた父を。
広島県史の中に広島市神崎地区で反戦運動があったと記されている、と知らせてくれた人がいるが、父は、その中に入っていたのだろう。食事前後に父は、私に戦争の非をよく話したが、幼い私には理解出来なかった。私が、「東條さん、東條さん、東條さんは偉い人ー」と歌っていると、苦笑してにらんだ顔を思い出す。現在、父の言った通りの状況になり、父の理解がやっと出来た。
ゲンの家族構成は、私の家族と同じで、自分の過去を思い起こして物語の構想を練った。描き始めると、舟入本町の路地、わが家の間取り、裏の家に住んでいた朝鮮人の朴さん、廊下に座して長いキセルを足の指に掛けてたばこを吸う姿、ラムネ工場、ブドウだな、よく遊んだダ菓子屋の四郎はヨダレを垂らしいつもゴムの前掛けをしていた。次々と顔が浮かび上がり、私は31年前の広島の地に立って走る。ゲンは私の分身となって原稿の上で駆けだす。
子供の情操教育には残酷さを排除して美化した夢物語の絵本や小説を人は与えるが、私は、反対なのだ。その一面はあるが頭脳の若い柔軟な時こそ、事実の残酷さを見せ、いったいだれが、その場面をつくり出し、本当に憎まなくてはいけないのは何かを具体的に知らせるべきだと私は、思っている。
「はだしのゲン」の作品は、どんな残酷な場面でも手加減せずに描くつもりだった。ゲンに願いを託し、どんなに苦しく残酷な場面も乗り越えさせ、前向きに突き進んでいく姿を描いた。それは、現在の私にも言える事だから。(漫画家)
被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。
(2025年8月14日朝刊掲載)
ゲンの父親は、反戦的な思想と言動を取って戦争のばかばかしさをゲンに教えるが、実際に私の父も新協劇団に属し、反戦的な思想を持ち、官憲に捕まって5カ月間、拘置され、歯がガタガタになった。帰って来た父のその姿を幼い私は覚えている。そして激論の末、町内会長を追い返していた父を。
広島県史の中に広島市神崎地区で反戦運動があったと記されている、と知らせてくれた人がいるが、父は、その中に入っていたのだろう。食事前後に父は、私に戦争の非をよく話したが、幼い私には理解出来なかった。私が、「東條さん、東條さん、東條さんは偉い人ー」と歌っていると、苦笑してにらんだ顔を思い出す。現在、父の言った通りの状況になり、父の理解がやっと出来た。
ゲンの家族構成は、私の家族と同じで、自分の過去を思い起こして物語の構想を練った。描き始めると、舟入本町の路地、わが家の間取り、裏の家に住んでいた朝鮮人の朴さん、廊下に座して長いキセルを足の指に掛けてたばこを吸う姿、ラムネ工場、ブドウだな、よく遊んだダ菓子屋の四郎はヨダレを垂らしいつもゴムの前掛けをしていた。次々と顔が浮かび上がり、私は31年前の広島の地に立って走る。ゲンは私の分身となって原稿の上で駆けだす。
子供の情操教育には残酷さを排除して美化した夢物語の絵本や小説を人は与えるが、私は、反対なのだ。その一面はあるが頭脳の若い柔軟な時こそ、事実の残酷さを見せ、いったいだれが、その場面をつくり出し、本当に憎まなくてはいけないのは何かを具体的に知らせるべきだと私は、思っている。
「はだしのゲン」の作品は、どんな残酷な場面でも手加減せずに描くつもりだった。ゲンに願いを託し、どんなに苦しく残酷な場面も乗り越えさせ、前向きに突き進んでいく姿を描いた。それは、現在の私にも言える事だから。(漫画家)
被爆80年にちなみ、1976年に掲載した中沢さんの「緑地帯」を再掲します。表現は掲載時のままにしています。
(2025年8月14日朝刊掲載)