『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <5> 復興期
25年8月14日
「被爆していない」負い目
≪戦後も君田村(現三次市)での疎開生活を続けた。何より食糧難に苦しんだ≫
母しげはかっけを患うほどでした。ある日、食料調達のため一緒に長い山道を歩いていると母が倒れ込み声を上げて泣き出した。つらかったです。運動会の時、物資と交換するため母が手放していた大切な着物を着て地べたに座っている人がいました。お弁当を食べながら必死になって自分の体を動かし、母から見えないようにしました。
一方で父の市郎は1946年、失明した右目の入院療養を終え、広島高等師範(現広島大)の教壇に再び立ちました。
原爆で壊滅した広島高師は、乃美尾村(現東広島市)の旧海軍衛生学校で授業を再開しました。父は、広島市内での校舎再建を目指し、力を注ぎます。さらには総合大学設置運動へと進んでいきました。傷つき、片目の視力を失った体を押して列車で上京。大蔵省や文部省、連合国軍総司令部(GHQ)を回り、予算獲得と大学教育の民主化へ奔走したのです。
≪広島高師は47~48年に広島への復帰がかなう。兄と姉は先に広島へ戻り、学生たちが暮らす「淳風寮」の一間で父と生活した。家族そろって住むようになったのは49年のこと≫
それまでは広島へ時折、会いに行きました。小学3年の夏休みに、寮近くの本川で遊んでいて小さな頭蓋骨を見つけました。なぜか「父に知らせなければ」と考え、持ち帰って手渡すと号泣されました。物言わぬ原爆犠牲者の無念を背負って生きた父にとって、生存被爆者に限定せず、死没者や遺族を含めた「原爆被害者」への補償を求める運動につながる原体験の一つだったと思います。
復興期の広島は、街全体に原爆の爪痕が残っていました。周りには親を失った子どもたちがいました。でも私は被爆していない。家族もいる―。一緒に遊びながら、申し訳なさにさいなまれました。
(2025年8月14日朝刊掲載)