×

連載・特集

戦後80年 広島不屈のモノ語り <7> 百貨店

復興と歩み 暮らし豊かに

惨禍越え 文化・流行発信

 戦後80年の夏も、多くの帰省客でにぎわった百貨店の福屋八丁堀本店(広島市中区)。1945年8月6日、米軍による原爆投下で、爆心地から約710メートルにあった店舗は外壁を残して全焼した。今も営業を続ける姿には、惨禍を乗り越えた人々の思いと街の復興の歩みが刻まれている。

 元従業員の神田美子さん(88)=廿日市市=は被爆10年後の55年に入社した。この年、福屋は初の増築に乗り出していた。営業しながら外壁を部分的に壊し、8階建ての別棟とつなぐ難工事。社史には「騒音と埃(ほこり)に悩まされる日々が続いた」と記されているが、神田さんは「誇らしい思いで工事を見ていた」と振り返る。

 工事で空調が使えず、夏には売り場に大きな氷柱を置いて暑さをしのぐ日々。神田さんは「人々の暮らしが豊かになる」と希望を胸に、事務や経理の仕事にいそしんだ。工事は56年に終わり、エスカレーターができた。「子供天国」と呼ばれた屋上は、家族連れでごった返した。

 店がにぎわいを取り戻す一方で、従業員の多くは被爆の傷を抱えていた。神田さんは、通っていた楠那国民学校(現南区)の校庭で被爆。家路を急ぐ道すがら、やけどを負った人たちを目の当たりにした。親しくしていた福屋の先輩の女性は店内で爆風を浴び、飛び散ったガラス片が腕に食い込んだままだった。

 神田さんにとって福屋は子どもの頃から憧れの存在。「街に出ることは福屋に行くことだった」と懐かしむ。福屋は29年に創業し、今の八丁堀本店は38年に完成。「東京、大阪をしのぐものを」と経営陣が情熱を注いだ「白亜の殿堂」だった。国民学校に入学する前に、祖父によそ行きの服を買ってもらった。

廃虚化した店舗

 しかし、戦争は華やかさを奪った。生活の品は配給となり、売り場の多くを軍関係の機関に差し出した。原爆によって出勤途中や店内にいた従業員31人が命を落とし、店舗は廃虚と化した。

 それでも、残った幹部や従業員はくじけなかった。46年の元日、焼け跡のれんがでかまどを作り、熱かんにした清酒を牛乳瓶に入れて店先で売った。翌2月に1階で営業を再開。55年から75年まで増築は4期に及び、商品の数も種類も増えた。

 神田さんの夫で食品売り場を担当していた博さん(89)は「広島にはない最先端の物を届けよう」と奔走した。70年代にはオーストラリアの物産展を企画。美術担当の頃は週替わりで絵画や焼き物を展示し、販売した。「暮らしが豊かになり、お客さんの目も肥えていった」

 広島市内では復興が進むにつれ、新たな百貨店の進出が相次いだ。天満屋(岡山市北区)は54年、福屋の東側に、後の八丁堀店を開いた。増改築を重ね、福屋と競うように売り場を広げた。

 天満屋も戦禍に見舞われていた。岡山市街地の6割が焼失した45年6月29日の岡山空襲で本拠地の店が炎上。当時専務だった伊原木伍朗さん(60年に51歳で死去)が「人間の生活がある以上は必要な仕事だ」と再興に立ち上がり、45年10月に再び営業を始めた。

屈指の激戦区に

 広島市中心部では73年に三越、74年にそごうも進出し、全国屈指の百貨店激戦区となる。天満屋の執行役員や監査役を務めた内平宏玄(こうげん)さん(64)は83年に入社し、広島の店で長く婦人服の販売を担当。冬には20万円台のウールのコートが飛ぶように売れた。先輩からは「バーゲンの日は通路が客で埋まり、空になったワゴンの上を走って品出しした」と伝え聞く。

 ただ、バブル経済が崩壊した90年代以降は消費が冷え込み、郊外の大型店との競争も激しくなった。天満屋は2012年3月4日に八丁堀店を閉店。買い物客ら約千人が見守る中、内平さんは店長として約200人の従業員とともに頭を下げ、シャッターを下ろした。

 戦後復興とともに成長し、「小売りの王様」と称された百貨店。経営の規模こそ小さくなったが、広島の各店は地域の特産品や文化、流行を発信し続けている。福屋で取締役を務めた神田博さんは「今後も食や衣料品、文化の発掘が百貨店の存在意義になる」と信じる。「いつの時代においても、お客さまの幸福に寄与し得る百貨店であり続ける」。福屋に息づく理念である。

 終戦から80年。先人たちが苦難を乗り越えて生み出した広島の製品やサービスは、地域経済に活力を吹き込み、人々の暮らしを支えてきた。これからも不屈の精神とともに未来へと受け継がれ、新たな物語を紡ぐ。(黒川雅弘) =おわり

(2025年8月22日朝刊掲載)

年別アーカイブ