緑地帯 明石英嗣 岡山の文学者が伝える戦後80年④
25年8月22日
1951年に「イエスの裔(すえ)」で直木賞を受賞し、「眠狂四郎」シリーズで剣豪小説の大ブームを巻き起こした柴田錬三郎(17~78年)は備前市の出身だ。第2次世界大戦に従軍し、生還した作家の一人でもある。柴田は後に、当時のことを雑誌「終末から」の中で次のように記している。「私が、生きるとか死ぬとかいうことに対して決定的なものを与えられたのは、昭和20年5月にバシー海峡で乗っていた輸送船が撃沈されたときのことです。(中略)人間というものは、無心の状態でなければ生きのびられない。…無心な状態であったことで私は助かったんだなぁ」―。大海原で経験した“無心”は、ヒット作「眠狂四郎」でも描かれているように柴田の生涯を支配した“虚無”の精神へとつながる。
終戦後、日本読書新聞の編集長を務めながら文筆活動を続けるが、結核を患っていた妻の治療費もあり、生活は困窮。直木賞受賞後も食えない時期が続き、実話風読み物や地方新聞に書いた恋愛もの、現代小説など暗中模索しながらの“無心”の作家生活を余儀なくされた。
50年代後半、週刊誌や新聞に連載された長編小説「図々しい奴」は、柴田の私小説的な要素もあるが、単なる立身出世物語を描いた小説の域を超え、戦中・戦後の政治、経済の変遷、当時の習俗・風俗などを後世に伝える貴重な歴史書でもある。無心になって無事生還した作家が描く戦中戦後は、ことばの一つ一つが風景として蘇(よみがえ)る。(吉備路文学館館長=岡山市)
(2025年8月22日朝刊掲載)
終戦後、日本読書新聞の編集長を務めながら文筆活動を続けるが、結核を患っていた妻の治療費もあり、生活は困窮。直木賞受賞後も食えない時期が続き、実話風読み物や地方新聞に書いた恋愛もの、現代小説など暗中模索しながらの“無心”の作家生活を余儀なくされた。
50年代後半、週刊誌や新聞に連載された長編小説「図々しい奴」は、柴田の私小説的な要素もあるが、単なる立身出世物語を描いた小説の域を超え、戦中・戦後の政治、経済の変遷、当時の習俗・風俗などを後世に伝える貴重な歴史書でもある。無心になって無事生還した作家が描く戦中戦後は、ことばの一つ一つが風景として蘇(よみがえ)る。(吉備路文学館館長=岡山市)
(2025年8月22日朝刊掲載)