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[被爆80年] 「原爆下の対局」碁盤後世へ 囲碁史に残る本因坊戦 関係者遺族、原爆資料館に寄贈

 「原爆下の対局」として語り継がれる1945年8月6日の本因坊戦で使われた碁盤と碁石を、保管していた関係者の遺族が原爆資料館(広島市中区)に寄贈した。空襲を警戒し、会場を郊外の五日市町(現佐伯区)に移したことで名棋士が命拾いした、囲碁史に残る対局。資料館は、原爆が文化の担い手を奪いかねなかったエピソードの「証人」として、碁盤を後世に引き継ぐ。

 戦後の囲碁界をリードした橋本宇太郎本因坊と挑戦者の岩本薫七段(いずれも当時)の対局。7月24~26日に中島本町(現在の平和記念公園)で第1局を済ませたが、広島市内は空襲の恐れがあり中国地方総監府長官からの厳命で第2局は会場を変更。五日市町吉見園にあった中国石炭(現株式会社ちゅうせき)社長の津脇勘市邸で8月4~6日に打たれた。

 回想録などによると、6日午前8時過ぎ、石を並べ直して「さあ再開」と構えた瞬間、閃光(せんこう)が広がった。爆心地から約8キロ。爆風で窓ガラスは粉々になり碁石も散らばった。橋本は「我(われ)に返ったとき、私は庭の芝生に突っ立っていた。岩本さんは碁盤にうつぶせになっている。なにもかも吹っ飛んでいた」と証言している。けがはなかったため、片付け後に対局を再開し橋本が勝利した。

 囲碁盤は津脇さん所有の脚付きの6寸盤。後に、立会人の瀬越憲作八段(当時)が「澄神(ちょうしん)」と命名し、対局した両氏も署名している。長らく遺族が保管していた。

 津脇さんの孫で、国内外で活躍する画家・アートディレクターのEd TSUWAKIさん(59)=東京=が、関連書籍などを含む一式を今年1月に原爆資料館に寄贈した。「祖父と父から引き継いだ碁盤。後世に残していただける世界でただ一つの場所に託しました」と話している。

 同館学芸展示課の落葉裕信学芸係長は「もし当日、爆心地近くで対局していたら『原爆下の碁盤』は現存していない。残された碁盤が、原爆によって広島の文化が失われた側面を想起する手がかりになれば」と願う。「企画展などの機会にエピソードを交えて展示したい」としている。

(2025年8月22日朝刊掲載)

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