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亡き妻の手記と「初対面」 在米被爆者の更科さん 3世代で広島訪問 秘めた思いに涙 祈念館に遺影も

 在米被爆者の更科洵爾(じゅんじ)さん(96)=カリフォルニア州=は被爆80年の節目となった今月、同じく被爆者でおととし92歳で死去した妻清子さんたちへの慰霊の思いを胸に一時帰国した。国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)を訪ねた際、生前に体験を語ろうとしなかった清子さんが寄せていた手記と「初対面」。付き添った息子と孫の3世代で、その秘められた思いに触れた。(金崎由美、桧山菜摘)

 更科さんは米国広島・長崎原爆被爆者協会の会長として市に招かれ、息子ジェームズさん(64)、孫エミリーさん(22)と6日の平和記念式典に参列した。市の窓口で清子さんの名前を原爆死没者名簿に記載申請し、祈念館でも遺影の登録手続きをした。

 その際、祈念館の職員から清子さんの手記を所蔵していると伝えられた。開館前の1997年、市の呼びかけに応じて送られてきたという。

 清子さんは被爆当時は広島県立広島第一高等女学校(県女、現皆実高)の3年生で、南観音町(西区)の動員先にいた。けがで血だらけになったことや、「異様な人々の群」が両腕を前に垂れて歩く様子、「黒い雨」を浴び、担架で負傷者を運んだことを記していた。「無念の思いでなくなられたであろう有縁無縁の人々の鎮魂のため…生き残った被爆者の義務であると思い書き綴(つづ)りました」

 原稿用紙10枚分。丁寧な筆跡を追った更科さんは「書いているそぶりは一切なかった。隣に座って語ってくれているようだ」と目頭を押さえた。更科さんが英訳して読み上げると、ジェームズさんとエミリーさんも「全て初めて知ることばかり」と涙を拭った。

 更科さんは、現在の安芸高田市からハワイへ移民した僧侶の家庭に生まれ、後に広島へ。県立広島一中(現国泰寺高)に通い、南観音町(西区)の旭兵器工業で被爆した。父が米本土の日系人収容所に抑留されて一家は一時離散。帰米した戦後も、朝鮮戦争に米国兵として従軍するなど戦争と隣り合わせだった。被爆後に見た母校の惨状や、下級生たちを助けられなかった無念を原爆投下国で語り、核兵器なき平和への願いを伝えてきた。

 今回の広島訪問の終わりに更科さんは祈念館を再び訪れ、タッチパネル上で見られるようになった清子さんの遺影と対面した。手記の公開にも同意した。「名簿が納められた原爆慰霊碑と、遺影と手記のある祈念館。妻と会うことのできる場ができた」と更科さん。エミリーさんは「広島と祖父母の被爆体験をより身近に感じます」と画面に手を合わせた。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
 2002年8月開館。原爆犠牲者の「追悼空間」や遺影コーナー、被爆体験記の閲覧室などがある。遺影は「原則として死没者の遺族」による登録制で、名前だけでも受け付けている。現在、名前や遺影の登録は約2万9千人、体験記の収蔵は約15万編に上る。

(2025年8月25日朝刊掲載)

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