[戦後80年 遺構を巡る 芸南賀茂] ふん尿部屋の防空壕(呉市音戸町) 今も残る 自宅の避難先
25年8月24日
80年前、米軍のB29爆撃機が、呉市や周辺のまちを何度もかすめた。その頃から民家に残る戦争遺構もある。呉市音戸町田原の砂古和彦さん(85)の自宅には、防空壕(ごう)として使った納屋の下の空間が今も当時と同じ形をとどめる。
半地下の空間は高さ約1・5メートルで、広さは15平方メートルほど。戦時中は、農耕用に飼育していた牛の排せつ物をためる場所にしていた。ふん尿の臭いはさほど気にならなかったが、蒸し暑くて足元も悪かったという。
旧海軍の軍港や工廠(こうしょう)のあった呉を狙った空襲が何度もあった1945年。空襲警報が鳴ると、自宅から約50メートル離れた共同防空壕ではなく、着の身着のまま祖父母、母、妹たち家族8人で納屋の下に避難した。
呉市街地の大部分が焼け野原になった7月の空襲の時もそうだった。当時5歳だった砂古さんは「何のこっちゃ分からんかった。母に連れられて必死で逃げた。不安と恐怖に包まれた時間は忘れられない」と振り返る。耳をつんざく低空飛行の音が聞こえなくなるまで身を潜めた。
「怖い目におうてみんと分からんよ。世界が誤った方向に行かんようにせんといけん」。砂古さんは、その思いを強くしている。(開沼位晏)
(2025年8月24日朝刊掲載)
半地下の空間は高さ約1・5メートルで、広さは15平方メートルほど。戦時中は、農耕用に飼育していた牛の排せつ物をためる場所にしていた。ふん尿の臭いはさほど気にならなかったが、蒸し暑くて足元も悪かったという。
旧海軍の軍港や工廠(こうしょう)のあった呉を狙った空襲が何度もあった1945年。空襲警報が鳴ると、自宅から約50メートル離れた共同防空壕ではなく、着の身着のまま祖父母、母、妹たち家族8人で納屋の下に避難した。
呉市街地の大部分が焼け野原になった7月の空襲の時もそうだった。当時5歳だった砂古さんは「何のこっちゃ分からんかった。母に連れられて必死で逃げた。不安と恐怖に包まれた時間は忘れられない」と振り返る。耳をつんざく低空飛行の音が聞こえなくなるまで身を潜めた。
「怖い目におうてみんと分からんよ。世界が誤った方向に行かんようにせんといけん」。砂古さんは、その思いを強くしている。(開沼位晏)
(2025年8月24日朝刊掲載)