『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <10> 母の活動
25年8月23日
原水爆禁止 信念の人
≪無数の原爆犠牲者を背負うかのように反核を貫く父市郎の姿は、作家の大江健三郎に「ここに哲学者がいる」などと評された。母しげも「論理的かつ具体的な言葉を、魅力と威厳とにみちて話す」と代表作「ヒロシマ・ノート」に記されている≫
父が既に原水爆禁止運動の対立の渦中にあった1959年、母は作家の栗原貞子さんや正田篠枝さん、被爆者の日詰しのぶさんらと「原水爆禁止広島母の会」を結成。機関誌「ひろしまの河」を発行し、皆で文芸作品や凄絶(せいぜつ)な被爆体験の聞き取り記録、米軍岩国基地の周りを歩いてのルポなどを執筆していました。会自体は「思想や立場の違いを超えて原爆の非人間性を訴える」という初心の通りには必ずしもいかず、曲折はあったものの、母は本当に楽しそうに活動していましたね。
本質を見抜く力も備えていました。核が人間に強いる悲惨は、兵器だけでなくウラン採掘や原発など全ての核サイクルに及ぶ―。その思想にむしろ父より先に達していたと思います。
私たち家族には、父の活動ゆえの苦労もありました。「殺す」「一家が何されるか分からないぞ」などの脅迫状はしょっちゅうでした。父と路面電車に乗っていると、右翼の街宣車が「森滝先生は売国奴。心改めよ」と拡声器で怒鳴ってくる。父の白髪は窓越しでも目立つのでしょう。一時期、父は寝床の隅に木刀を置き、私も夜道を歩く際は気を付けました。ところが母は「しつこい輩(やから)だ」と動じない。信念の人でした。
≪自身は60年に負ったけがのため遅れて大学を卒業し、広島県内の中学校に勤めた≫
教育行政職という職種での採用でしたが、社会科の授業を受け持ちながら、学校の予算編成や教職員の諸手当の計算もします。2人分の仕事がのしかかりました。その頃に結婚し、子どもができました。今思い出してもつらくなるぐらい、つわりに苦しみました。
(2025年8月23日朝刊掲載)