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連載・特集

『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <12> 父をみとる

がん闘病・看病・介護 一度に

 ≪廿日市市内の中学校に勤め、忙しくしていた日常は50歳を境に激変する≫

 乳がんが見つかり、1989年に右胸を全摘。両側乳がんという珍しい症例で、93年には左胸も失いました。年を重ねた両親の世話に懸命で、特に母の介護は大変な思いをしていたところでもありました。兄や姉たちとどんなに協力し合っても、同居する私に何かと負担が集中するものです。

 2度目の手術は、父市郎が亡くなる数カ月前でした。とにかく心配で、抜糸した直後に県立広島病院から父が入院する広島赤十字・原爆病院へ向かいました。すると、傷口が完全に開いてしまったんです。手術室の空きがなく、病室のベッドの上で緊急の縫合処置を受けました。部分麻酔で、もう気が遠くなるような痛み。むちゃがたたったのでしょう。

 ≪父は病床で94年の年賀状に「いのちとうとし」などと記す。これが絶筆となった≫

 末期の胃がんでした。おなかが膨れ上がって大量の水を注射器で抜かれても、モルヒネを打つ瀬戸際で痛みに苦しんでも一切愚痴をこぼさない。「大丈夫」「すまんのお」と思いやりを欠かしませんでした。若い看護師さんが胸を打たれ、「先生、苦しいと言ってください」と泣き出したほどです。

 94年1月25日、顔にかすかな笑みを浮かべ、3回大きな息をして亡くなりました。父らしい、穏やかな最期でした。

 悲願だった被爆者援護法の実現を見届けることはできませんでした。しかも、この年の末に成立した法律は「国家補償の精神」に基づいたとはいえない内容です。市民の戦争被害に対して責任を負わずに済むならば、国家は必ず戦争を繰り返すでしょう。父の無念を思います。

 私自身の闘病は、父の死去を挟み、厳しさを増していきました。私の支えとなってくれる、かけがえのない人との縁を得た時期でもありました。

(2025年8月28日朝刊掲載)

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