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連載・特集

[続・哲代おばあちゃん 105歳ありがとうの人生] 青春時代はずっと戦争ばっかり ええことないですねえ

原爆はなくなるもんじゃと思うてましたよ

子どもたちが安心できる未来をお願いします

 尾道市の105歳、石井哲代さんは戦争のことをあまり話したがらない。こちらから聞くと、「もう絶対に、あっちゃいけんことです」と言って、ゆっくりと記憶をたどり始める。師範学校生だった10代、教師になったばかりの20代、暮らしの真ん中に戦争があった。敗戦から80年。哲代さんが語る戦争、そして原爆とは―。(鈴中直美、木ノ元陽子)

17歳

 ≪日中戦争が始まる。1937(昭和12)年、三原女子師範学校に入学して2年後だった。≫

 戦争も初めの頃は戦果を上げていたんでしょう。先生に言われて師範学校の生徒は三原のまちを旗を振って歩かされていました。「勝った勝った」って言いながら。それこそ銃後の守りじゃないけども、後ろから応援せんといけんかったん。

 1週間に1ぺんは戦地に行く兵隊さんを見送りに行きました。福山の連隊から兵隊さんが出てじゃけえね、学校のある三原から福山まで行くわけです。夜に見送ることもあったから私たちも夜に行って、そのまま学校の体操場のような場所に泊まるんですが、寝間もないから寝られなくて。うたた寝してまた三原に戻るんですね。

 はあ~(長いため息)。青春時代はずっとそればっかり。ええことないですねえ。生徒が「戦争をやめろ、すべきじゃない」と言えば(警察や憲兵に)引っ張られるわけ。だから、戦争をしちゃいけんということも言われんかったです。

21歳

 ≪太平洋戦争が始まる。1941年、小学校教師になった翌年だった。≫

 小学校でも「欲しがりません勝つまでは」というふうに戦争に染まっていきました。1年生の教室にも天皇陛下の写真が掲げられ、拝んでおりました。「万歳」を言わんといけんし、「良い国民になります」などと子どもに言わせるんですね。

 戦意を育てるためなんでしょうが、当時は何でも戦争に結びつけるんです。草取りのような作業でも「戦争のため」「戦地で兵隊さんが頑張ってるんだから」って言い聞かせてさせるの。幼い子どもにまで戦争を押しつけんでもええのにと思うておりました。ただ、子どもを守らんといけんという思いだけは強く持っておりました。

25歳

 ≪敗戦。広島に原爆が投下された1945年8月6日、哲代さんは広島市中心部から約70キロの上下町(現府中市)で教師をしていた。翌日には、上下駅に避難してきた被爆者が降り立った。≫

 負傷者がどんどんやって来てね。上下のまちはしばらく混乱が続きました。武徳殿(旧上下警察署の敷地にあった道場)が臨時の収容所になって、傷ついた人を運び込んで寝かせるの。駅を降りて神石(神石郡)まで歩いて帰ろうとする人も何人もいました。うちの前の小路でも歩けんようになって、力尽きてんです。どんどん倒れるでしょう。それでみんなびっくりしてね。

 当時は原子爆弾なんて分かりませんもの。ああいうふうに人を殺すものだなんて。隣家のお父さんも突然亡くなりました。被爆して戻ってこられたときには元気そうで、みんな喜んだんです。もう安心じゃなあって。それなのに翌朝息を引き取ったの。元気に見えてもやられているんです。これが原爆なんじゃと思いました。

 原爆はなくなるもんじゃと思うてましたよ。人類を破滅させるものですけえね。この人類で反省してなくすもんじゃと信じておりました。それなのにいま、いつ核兵器を使うか分からんことになっとりますね。

 はあ、戦争が終わってもう80年になりますか。あんなむごたらしい情景を見た人はだんだんとおらんようになってますねえ。絶対にあっちゃいけんことです。子どもたちが安心して生きる未来をどうかお願いしたいです。

(2025年8月28日朝刊掲載)

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