緑地帯 明石英嗣 岡山の文学者が伝える戦後80年⑦
25年8月29日
内田百閒(ひゃっけん)(1889~1971年)は、岡山市古京町(現中区)の小さな造り酒屋の一人息子として生まれた。岡山中、第六高等学校(現岡山大)、東京帝国大へと進み夏目漱石の門下生となった。少年時代から漱石への憧れが強く自らを「流石」と号した。漱石のユーモアの感覚を受け継ぎ、「百鬼園随筆」では、明瞭な文章とユーモラスな内容で好評を博し、百閒の名を世に知らしめた。
百閒は、ふるさと岡山をこよなく愛する作家であったが、上京後はほとんど岡山へ帰ってくることがなかった。理由は諸説あるが、紀行文「阿房列車」に次のような記載がある。
「お城の烏城も烏有に歸して、(中略)私に取つては、今の現實の岡山よりも、記憶に殘る古里の方が大事である。見ない方がいいかも知れない。歸つて行かない方が、見殘した遠い夢の尾を斷ち切らずに濟むだらう」―。鉄道好きだった百閒は、50~55年にかけて「阿房列車」シリーズ15編を週刊雑誌で連載した。東京から九州へと向かう「不知火阿房列車」の車窓から見えるふるさとは、岡山空襲(45年6月29日)からの復興途上で、百閒の記憶とは異なる風景だった。岡山駅では10分間という停車時間に、好物の「大手饅頭(まんじゅう)」を持参した幼なじみとホームのベンチで会話を交わしたが、途中下車はしなかった。激しく推敲(すいこう)が施された生原稿からは、百閒の戦争に対する強い憎しみが伝わってくる。(吉備路文学館館長=岡山市)
(2025年8月29日朝刊掲載)
百閒は、ふるさと岡山をこよなく愛する作家であったが、上京後はほとんど岡山へ帰ってくることがなかった。理由は諸説あるが、紀行文「阿房列車」に次のような記載がある。
「お城の烏城も烏有に歸して、(中略)私に取つては、今の現實の岡山よりも、記憶に殘る古里の方が大事である。見ない方がいいかも知れない。歸つて行かない方が、見殘した遠い夢の尾を斷ち切らずに濟むだらう」―。鉄道好きだった百閒は、50~55年にかけて「阿房列車」シリーズ15編を週刊雑誌で連載した。東京から九州へと向かう「不知火阿房列車」の車窓から見えるふるさとは、岡山空襲(45年6月29日)からの復興途上で、百閒の記憶とは異なる風景だった。岡山駅では10分間という停車時間に、好物の「大手饅頭(まんじゅう)」を持参した幼なじみとホームのベンチで会話を交わしたが、途中下車はしなかった。激しく推敲(すいこう)が施された生原稿からは、百閒の戦争に対する強い憎しみが伝わってくる。(吉備路文学館館長=岡山市)
(2025年8月29日朝刊掲載)