戦後80年 広島不屈のモノ語り 先人の歩み <1> 大之木ダイモ 大之木精二相談役(90)
25年8月29日
戦争や原爆を経験した地場企業の経営者たちは、苦難を乗り越えて事業を再建し、地域経済の発展に貢献してきた。終戦から80年。歩み続けてきた思いや未来への願いを語った。
≪建設業の大之木グループ(呉市)は1920年、大之木精二相談役の祖父小太郎氏が創業した大之木材木店に始まる。戦前は呉海軍工廠(こうしょう)に木材を納め繁盛したが、戦時中は国の統制で営業中止を余儀なくされた。45年7月の呉空襲で社屋を焼失する。≫
私は真珠湾攻撃の年(41年)に小学校に入った。あの頃の呉は軍事都市として大にぎわいで、土日は肩を擦り合わせながら歩くほどの人出。家業の材木店は仕事がたくさんあった。
45年3月ごろから、市内上空で米軍の戦闘機を見るようになった。あの日は、いつものように叔父の家の庭にあった防空壕(ごう)に逃げたが、火が迫ってきた。少し離れた親戚の家に避難し、高台から兄と2人で呉の街を見た。街は火の海そのもの。家族は幸い無事だったが、会社も家も丸焼けになった。
≪戦後は父の2代目小太郎氏と、父の弟4人が家業を立て直す。下の3人は兵役から帰還。材木業を再開し、建築業との2本柱で事業を拡大した。駐留軍からの建築依頼も次々と舞い込んだ。≫
焼け跡に会社を再建し、瓦ののった屋根は呉で初めてじゃないかっておやじが自慢した。今から見たら小屋だけどね。叔父の英雄は英語が得意。通訳ができて、駐留軍に建材を納めたり、住宅を建てたりした。祖父が「商売は信用と信頼が全て。きょうだいは仲良く」と言っていたらしい。今も堅実に事業を続ける上で、アイデンティティーになっている。
≪精二氏は大学卒業後、家業に入った。2年後、英雄氏たちが新事業として立ち上げたダイモ工芸に移り、組み立て家具の製造に乗り出す。≫
入社後、軍から払い下げになった工場跡を生かして、タンスなどの家具を作ることになった。市内に学習机の製造で成功した会社があって、一時期はうちももうかった。ライティングビューロー(収納付きの机)は、在庫が持てないくらいにヒットした。海外から安い家具が入って売れなくなり、約20年前にやめた。
≪ダイモ工芸は71年、大之木木材と合併し大之木ダイモになる。72年にホームセンターの先駆けである日曜大工ストア「TAK(タック)」を始めた。住宅事業や船舶の艤装(ぎそう)工事にも本格的に参入した。≫
TAKは最大8店まで広げたが、今は呉の1店。全国で他社がこれほど伸びるとは思わなかったな。人材不足もあって注力を怠り、だんだんしぼんでしまった。住宅事業は広島市内の団地が中心で、断るくらいに注文がくる時期があったね。
≪近年はリフォーム事業と船舶の内装が中心。グループ会社の大之木建設は、大型建築と土木工事を担い、農業にも挑んでいる。≫
家業に固執していては駄目。格好良く言えば経営の多角化です。根底にある信用と信頼を基に「もうける会社」ではなく「もうかる会社」になっていきたい。(赤江裕紀)
おおのき・せいじ
慶応大経済学部卒。1960年に大之木建設入社。62年にダイモ工芸、71年に大之木ダイモに移る。99年に社長、2008年に会長、12年から相談役。呉市文化振興財団名誉理事長、広島文化学園大理事も務める。呉市出身。
(2025年8月29日朝刊掲載)
会社焼失 戦後家族で再建
多分野挑戦 根底に信頼
≪建設業の大之木グループ(呉市)は1920年、大之木精二相談役の祖父小太郎氏が創業した大之木材木店に始まる。戦前は呉海軍工廠(こうしょう)に木材を納め繁盛したが、戦時中は国の統制で営業中止を余儀なくされた。45年7月の呉空襲で社屋を焼失する。≫
私は真珠湾攻撃の年(41年)に小学校に入った。あの頃の呉は軍事都市として大にぎわいで、土日は肩を擦り合わせながら歩くほどの人出。家業の材木店は仕事がたくさんあった。
45年3月ごろから、市内上空で米軍の戦闘機を見るようになった。あの日は、いつものように叔父の家の庭にあった防空壕(ごう)に逃げたが、火が迫ってきた。少し離れた親戚の家に避難し、高台から兄と2人で呉の街を見た。街は火の海そのもの。家族は幸い無事だったが、会社も家も丸焼けになった。
≪戦後は父の2代目小太郎氏と、父の弟4人が家業を立て直す。下の3人は兵役から帰還。材木業を再開し、建築業との2本柱で事業を拡大した。駐留軍からの建築依頼も次々と舞い込んだ。≫
焼け跡に会社を再建し、瓦ののった屋根は呉で初めてじゃないかっておやじが自慢した。今から見たら小屋だけどね。叔父の英雄は英語が得意。通訳ができて、駐留軍に建材を納めたり、住宅を建てたりした。祖父が「商売は信用と信頼が全て。きょうだいは仲良く」と言っていたらしい。今も堅実に事業を続ける上で、アイデンティティーになっている。
≪精二氏は大学卒業後、家業に入った。2年後、英雄氏たちが新事業として立ち上げたダイモ工芸に移り、組み立て家具の製造に乗り出す。≫
入社後、軍から払い下げになった工場跡を生かして、タンスなどの家具を作ることになった。市内に学習机の製造で成功した会社があって、一時期はうちももうかった。ライティングビューロー(収納付きの机)は、在庫が持てないくらいにヒットした。海外から安い家具が入って売れなくなり、約20年前にやめた。
≪ダイモ工芸は71年、大之木木材と合併し大之木ダイモになる。72年にホームセンターの先駆けである日曜大工ストア「TAK(タック)」を始めた。住宅事業や船舶の艤装(ぎそう)工事にも本格的に参入した。≫
TAKは最大8店まで広げたが、今は呉の1店。全国で他社がこれほど伸びるとは思わなかったな。人材不足もあって注力を怠り、だんだんしぼんでしまった。住宅事業は広島市内の団地が中心で、断るくらいに注文がくる時期があったね。
≪近年はリフォーム事業と船舶の内装が中心。グループ会社の大之木建設は、大型建築と土木工事を担い、農業にも挑んでいる。≫
家業に固執していては駄目。格好良く言えば経営の多角化です。根底にある信用と信頼を基に「もうける会社」ではなく「もうかる会社」になっていきたい。(赤江裕紀)
おおのき・せいじ
慶応大経済学部卒。1960年に大之木建設入社。62年にダイモ工芸、71年に大之木ダイモに移る。99年に社長、2008年に会長、12年から相談役。呉市文化振興財団名誉理事長、広島文化学園大理事も務める。呉市出身。
(2025年8月29日朝刊掲載)