[知っとる? ヒロシマ調べ隊] Q 原爆投下時に警報なかった?
25年9月1日
発令伝える途中 さく裂
広島に原爆を落とした米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイを見たり飛ぶ音を聞いたりした人がいたのに、なぜ警報は出なかったのだろう―。被爆者からあの日の話を聞くたびに考えます。実際はどうだったのでしょうか。
中国地方の警報の発令や解除は、広島市基町(現中区)の広島城内にあった中国軍管区司令部が担っていました。計100カ所以上の見張り台から目と耳で確認した敵機の数などによって、判断していました。
1945年8月6日は午前7時9分に広島県内に警戒警報が出ましたが22分後に解除されています。これは米軍が当日の天候を確かめるために飛来させた1機で、すぐに広島上空を離れました。約30分後の午前8時6分、広島県松永町(現福山市)の見張り台が広島方面へ進む米軍機の来襲を報告しました。司令部が情報を受け取ったのは同11分ごろでした。
当時の司令部はどんな状況だったのでしょうか。被爆7日後の8月13日に司令部が作成した資料には「警戒警報ヲ発令セントスルヤ〇八一五爆撃ヲ受ク」とあります。司令部内に当時いた人の手記を複数読むと、発令時刻(8時13分など)や警報の種類にばらつきはありますが、発令を外部に伝えかけて原爆がさく裂したのが分かります。
一方で、広島城の元学芸員で現在も旧陸軍の調査を続ける秋政久裕さん(63)=東広島市=は「一部の地域ではサイレンが鳴った可能性がある」と指摘します。
南段原町(現南区)で被爆した軍医の指田吾一さん(69年に59歳で死去)は手記に「遠く、近く、いっせいに空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響きはじめた」直後に閃光(せんこう)を見たとつづっています。軍属として司令部にいた斎藤美知子さん(当時17歳)は、警報を「半分くらい伝達し終った時」に原爆がさく裂したと記しています。
もし警報が市民に行き届いていたとしても―。広島原爆戦災誌によると、広島市中心部では連日、計約2万人の中学生や地域・職域の義勇隊が建物疎開作業に動員されていました。遮るものが乏しい屋外での作業を命じられ、すさまじい熱線や爆風、放射線から逃げる手段はほとんどなかったでしょう。(桧山菜摘)
(2025年9月1日朝刊掲載)