[被爆80年] 胸にしまったヒロシマ語る 天野幸吉さん(86)/桑原一之さん(87)
25年9月1日
「最後の年代」自覚 今夏証言者に
被爆80年の今夏、新たに2人の被爆者が広島市の被爆体験証言者として語り始めた。天野幸吉さん(86)=安芸区=と、桑原一之さん(87)=安佐南区。自分たちを含め老いが進む中、長く胸にしまっていた「あの日」の記憶を次代につなごうと決意した。(山下美波、下高充生)
「生と死が行き交うむごい世界でした」。天野さんは涙で声を詰まらせながら約1時間、愛知県の中学生10人に語った。8月8日に原爆資料館(中区)であった初めての講話は思いがあふれて予定時間を超え、すべてを語れなかった。
三篠国民学校(現西区の三篠小)1年時に爆心地から1・6キロの横川町(現西区)の自宅で被爆した。水を求める全身やけどの人や、子どもの名前を叫び続ける女性…。逃げる途中で見た惨状は脳裏に焼き付いている。
家族6人はみな無事だったが、裕福な暮らしは一変。自宅は全焼し、中野村(現安芸区)の親戚宅の納屋に身を寄せた。被爆時のけがが痛んでも病院に行けず、1年休学。中学卒業後に広島県内の鉄工所に就職したが、「原爆のこともあり、広島が嫌になった」と全国を転々とした。30歳ごろに広島へ戻り結婚。2児をもうけた後も記憶は胸にしまった。
約5年前、知人の頼みで地元の公民館と中学で初めて被爆体験を話したことがあった。年を重ね「同じ死ぬなら原爆の悲惨さを伝えた方が良い」と考えるようになり、4年前に市の証言者に応募した。
講話の原稿を書くと、当時の惨状や戦後の苦労を思い出し、体調を崩した。音楽を聴いて気を紛らわせながら20ページにまとめ、研修を終えた。初講話では、直前まで話せるか不安だったが、終了後「真剣に聞いてくれた。きっと記憶を語れる最後の年代の被爆者だと思うので、伝えていきたい」と力を込めた。
桑原さんは比治山国民学校(現南区の比治山小)2年時に、分散授業所だった爆心地から約2キロの寺で被爆。子への影響や周囲の受け止めが分からず、被爆者だと明かしてこなかった。一昨年にがんを患ったのを機に、証言者に応募した。
初講話は8月1日、兵庫県から資料館を訪れた小学生たち約40人が相手だった。「ドガーン、バーンとガラスが飛び散った」などと80年前の状況を説明。「原爆が一発でもまた使われるととんでもないことになる」と訴えた。
市の被爆体験証言者は2人を含め30人。2015年の49人を最多に減少傾向が続く。平均年齢は88・0歳となった。
(2025年9月1日朝刊掲載)