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連載・特集

戦後80年 広島不屈のモノ語り 先人の歩み <2> 新庄みそ 山本弘樹会長(89)

「誰でもおいしく」追った夢

特徴ある商品 開発今も

 ≪1945年8月6日、原爆で三篠町(現広島市西区)の本社工場と自宅が焼失。山本弘樹会長は13歳の兄勇樹さんを亡くした。当時9歳で疎開先の亀山国民学校(現安佐北区)の4年生。授業中にきのこ雲を見た。≫

 算数の時間、ピカッと光ったのを見た。阿武山の向こう側にきのこ雲が上がった。同時に落ちた落下傘が時限爆弾ではないかという話になり、学校は大騒ぎ。避難解除になった後、家に帰った。

 旧制修道中2年の兄は爆心地から約1キロの雑魚場町(現中区)で建物疎開の作業中だった。母が市内を捜し回ったが見つからず、似島に収容されていることが9日に分かった。母が駆け付けると目はつぶれ、背中から腹部にかけて焼けただれていたという。兄は宮島へ送られ、12日に亡くなった。真面目できちょうめんな性格だった。

 戦争は、あまりにむごい。今もあちこちで起きているのは悲劇だ。なぜ為政者は話し合いで解決できないのか。

 ≪新庄みそは23年、山本会長の祖父万吉さんが三篠町で創業した。父芳人さんが47年に三篠町で工場を再建。山本会長は59年に入社した。≫

 戦時中は軍用のみそだけで市販用はほとんどなかった。戦後はよく家の手伝いをした。こうじ造りは全て手作業。終戦直後は大豆が手に入らず配給の脱脂大豆を使った。

 兄が亡くなり、両親に「あんたがやらんといけん」と言われてきた。修道中高に進み、広島大で発酵工学を学んだ。継ぐからには夢を持ちたい。みそは健康食品。世の中の役に立つ、なくてはならない商品だと思ってやってきた。

 入社後、おやじに「思うようにさせてくれ」とたんかを切り、製造部門を任された。あまりいい原料が手に入らなかった時代に、誰でもおいしいみそ汁を作れるようにと開発し、61年に発売したのがゴールデン新庄みそ。かつお節や昆布のエキスを入れた。加熱冷却器を導入し、うまみが消えないように工夫した。今も当初の味を守り、販売している。

 ≪吉田町(現安芸高田市)への工場の移転拡張を決めたが、オイルショックと重なって建設費が膨れ上がった。≫

 吉田工場は74年に稼働したが、当時は1期工事しかできなかった。発酵室がなく、78年までほぼ操業していない。その後、工事が進み、吉田だけで生産工程が完結するまで約10年は辛抱した。

 ≪2018年に長女美香さん(60)が社長に就任。社員がアイデアを出し合って開発した調味料の塩こうじはヒット商品になった。調理の時間短縮のニーズをくみ、女性や若者の消費を増やす取り組みに力を入れる。≫

 みその需要を減らさないことが業界としても大切。東京や大阪でも売れるような特徴ある商品が必要だ。中小企業は借り入れの負担を考えつつ、いかに設備投資をするか見極めるのが大変。「前向きに生きよう」という考え方があれば力を発揮できるはずだ。(黒川雅弘)

やまもと・こうき
 広島大工学部卒。農林省食糧研究所(現農業・食品産業技術総合研究機構)を経て、1959年に山本味噌(みそ)工場(現新庄みそ)入社。85年に社長、2018年から会長。広島市西区出身。

(2025年8月30日朝刊掲載)

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