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社説・コラム

社説 降伏文書調印80年 積み残された懸案 直視を

 米国では「VJデー(日本に勝った日)」と呼ぶ。1945年9月2日、東京湾に停泊する戦艦ミズーリ号で日本政府が降伏文書に調印した。米国を軸にした連合国による日本占領の時代が始まる。

 80周年の節目を前に、この日が注目されたのは石破茂首相の言動からだろう。国際法上は戦争が終結した日だと言及し、模索している先の大戦を巡る「見解」をここに合わせるという見方もあった。

 8月15日を終戦の日とする日本人の感覚とはやはり落差がある。ただ玉音放送をもって平和が訪れたという大方の受け止めが国内外の現実と懸け離れていたのも確かだ。

 何よりソ連の動きだろう。8月8日、日本に宣戦布告して旧満州(中国東北部)や日本が南部を領有するサハリンに侵攻した。日本が自軍に戦闘停止命令を出した16日を過ぎてもソ連は攻撃を続ける。千島列島を経て9月になっても北方領土を占領し、4島の邦人約1万7千人が脱出を余儀なくされた。今も解決が遠い領土問題の発端である。

 日本が9月2日を正式な終戦の日と見なすなら、日本が無条件降伏を認めた後もソ連が戦争を継続したという不当な行為を正当化してしまう、という指摘は分かる。

 そのソ連は旧満州などから57万人以上の日本軍兵士らを連行し、最長11年も収容所に入れて厳しい労働を強いた。うち約1割が死亡したとされるシベリア抑留である。

 大陸では味方の軍隊に守られないまま旧満州に放置された開拓民などの民間人も苦難に直面した。終戦翌年に引き揚げが始まっても命を落とした人は多い。取り残され、中国残留孤児となった子どもたちもいた。「棄民」ともいえる状況は日本の戦後処理の不十分さを象徴していよう。

 こうした苦境に立つ人たちにとっては決して戦争に「終わり」など来なかった。

 日本は占領下で民主化と経済復興を果たし、7年で国際社会に復帰する。その中で米空襲の被害救済など置き去りになった懸案は少なくない。

 不条理だった一つが日本人として戦った朝鮮半島など旧植民地の兵士の扱いだろう。捕虜監視などに従事してBC級戦犯として裁かれても講和条約で日本国籍を喪失したとされ、援護から外れた。

 遅々として進まない遺骨収集の問題も見過ごせない。戦没者遺骨収集推進法が9年前に施行されたが、南方や沖縄などの戦没者240万人のうち半分近くの遺骨がまだ収容されていない。こうした問題を風化させてはならない。

 2日には米国で大戦終結80年の記念行事が営まれる。3日には中国・北京で抗日戦争勝利80年の記念行事や軍事パレードがあり、ロシアのプーチン大統領も出席する。歴史問題で中国と共闘し、対日戦の「戦果」をウクライナ侵攻の正当化にも使う思惑があるとすれば願い下げである。

 ならば平和国家日本としてあの戦争と戦後復興の歩みをどう考えるのか。何を教訓として生かし、何を積み残してきたのか。謙虚に直視し、総括しておく必要がある。

(2025年9月2日朝刊掲載)

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