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連載・特集

『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <14> インドへ

抗がん剤治療中断 現地行脚

 ≪1997年、被爆者団体などの代表者たちで結成した「インド・パキスタンと平和交流をすすめる広島市民の会」に加わる。「森滝市郎の娘」は「森滝春子」として初めて表舞台へ≫

 活動のきっかけとなった記事を書いた中国新聞社編集委員の田城明さんに現地のつてを聞き、2班に分かれ11月にインドとパキスタンへ行きました。私は、後に広島県被団協の理事長となる坪井直(すなお)さん、県原水禁の宮崎安男さんらと5人でインド班でした。

 実は、抗がん剤治療をやめての渡航でした。事前に主治医に相談をすると「引き留めても聞きはすまいに…」。私の性格をお見通しでした。転移がんに決定的に有効な薬はないと聞いたことも、決断の理由です。なぜそこまで、と聞かれてもうまく答えられません。体が動くうちにできることをする。私には、それが反核の訴えでした。

 ≪インドの現状は想像を超える過酷さだった≫

 家並みの貧しさは、戦後広島のバラックどころでありませんでした。乗った車が停止するたび、物乞いの子どもたちが手を伸ばしてきます。でも政府は大量破壊兵器の開発の方に巨額のお金をつぎ込み、国民も核兵器が自国を守ると信じ込まされている。全てが衝撃でした。

 現地の平和運動家たちと面会しながら、坪井さんは被爆時に大やけどを負い苦しんだ体験を証言。私も、インドが「平和的核爆発」として実験を行った74年に、非暴力主義を貫いたガンジーを尊敬する父が怒りに震えていたことを語りました。

 しかし98年5月、インドとパキスタンは競って核実験を強行。広島では市民の怒りが渦巻きました。国レベルの対立にからめ捕られない、市民の信頼と連帯の輪をもっと広げなければ―。後に広島平和文化センターの理事長となるスティーブン・リーパーさんたちと市民グループを結成し、2000年に再びインド、そしてパキスタンへ。01、03年も現地を行脚しました。

(2025年9月2日朝刊掲載)

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