『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <15> ウラン採掘の実態
25年9月4日
反核とは 問われる被爆地
≪2001年のインド訪問では、東部ジャドゥゴダのウラン鉱山周辺を巡って衝撃を受けた≫
汚染されたダムの近くに人間が住み、ウラン製錬後にできる鉱滓(こうさい)が野ざらしにされていました。ウランを掘った残土を利用して舗装された道路の上で、住民が麦を干しています。先天性の病気や障害に子どもたちが苦しんでいました。
採掘を担うのは、社会の最下層の人たちです。インドの平和運動家も、多くは目を向けません。でも核被害の現場には、政府の弾圧と闘いながら実態を訴える人たちがいました。被爆地が手をつなぐべきは、このような人たちだと確信しました。
現地の人たち自身では難しい取り組みを通じて、支援したい。03年、再びインドへ向かいました。京都大原子炉実験所にいた小出裕章さんと一緒です。空間線量や土の汚染状況を調べてもらい、特に道路のウラン濃度がとても高いことなどを科学的に突き止めました。
権力と富の独占者が弱き者を虐げ、環境を破壊することなしにウランを扱うことはできないのです。被爆地は、そのウランの行き着く先が核兵器であれば反対し、原発の燃料ならば見て見ぬふりをするのか―。核兵器を持つ国々を批判する私たちの方が、むしろ問われる側にいる。そう痛感しました。
≪現地に出向くだけでなく、双方向の交流を進めた≫
00~07年に5回、両国の若者たち約60人を広島に招きました。相手の国について悪いイメージを刷り込まれていても、一緒に合宿し、原爆資料館を見学してもらう中で参加者の顔の表情に変化が見えてきます。被爆地が、国家対立を超えて人間同士が触れ合う場となったのです。
カンパ集めや街頭募金に駆けずり回りました。驚いたことに、私たちの活動をテレビ番組で知ったという俳優の吉永小百合さんが原爆詩のチャリティー朗読会を開いてくれました。その時の縁は今に続いています。
(2025年9月4日朝刊掲載)