「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」を振り返る 惨禍の記録 訴えたものは
25年9月8日
1945年に撮影された広島原爆の記録写真と映像を集めた「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」は東京都写真美術館で8月17日まで開かれ、計68日間で3万7309人が来場した。その多くは、被爆地から離れた首都圏の市民と海外からの観光客。人類史上初めて米軍によって都市に原爆が投下された広島の現実を焼き付けた惨禍の記録に、来場者は何を感じ取っただろうか。6月末から会場にアンケート用紙を置いたところ、1670人が思いをつづった。その一部を紹介しながら会期を振り返る。(金崎由美、木ノ元陽子、山本洋子)
「今度 広島へ」「今起きてもおかしくない」「撮影者に敬意を」
展示室では、見渡す限りの焦土、市民の死傷、被爆の初期症状や生活の困窮などの実態を写真162点と映像2点によって時系列で伝えた。アンケート回答は「信じられない」「正視に耐えない」といった感情の吐露が目立つ。確かに会場は混雑した日も静かで、多くの人が沈痛な面持ちだった。
広島の出身者から「知ったつもりでいた」と省みる声が複数寄せられた。首都圏在住者の「過去からのバトンを受け継ぎたい」「今度は広島に行きたい」という回答も。私たち担当者は、励まされる思いで読んだ。
「今再び起こってもおかしくない」という訴えや、パレスチナ自治区ガザなど各地の現状への怒りもつづられた。多くが、80年前の悲惨を現代の戦争や非人道状況と重ね合わせていた。
核抑止にすがる日本を批判し、核兵器禁止条約の批准を求める声は根強い。「核兵器は安上がり」と言う政治家もいる中、「世界の政治家が展示を見るべきだ」と書かれた字の筆圧は高かった。
展示は、1945年8月6日から同年末までを、被爆直後、翌日から終戦後まで、被爆から1カ月以降の占領期―の3章に分けた。2025年度の新聞協会賞受賞が決まった中国新聞連載「ヒロシマ ドキュメント」をはじめ、主催した各報道機関の取材で明らかになった生前の撮影者の思いや、被写体となった市民の消息などを写真説明と展示解説に盛り込んだ。
撮影者の皆が抱えた葛藤に、共感が集まった。8月6日の当日、市内の被災者を「許してくださいよ」と涙ながらに撮ったのは元中国新聞社の松重美人(よしと)さんだ。一方で新聞社は、終戦まで国策報道に徹し、プレスコード(報道統制)が敷かれた占領期は原爆報道を封印した。米軍に資料提出を迫られた際は、撮影者たちが写真と映像を守り通した。「写真家たちの勇気に敬意を」。現在に通じる問いでもある。
私たちが伝えたかったのは、人間一人一人の命と尊厳だった。展示の最後に、写真家の林重男氏が残した言葉を掲げた。「このような記録は、私たちの写真が永遠に最後であるように」。来場者の胸に届いたと信じる。
皇族・外交官・芸能人・被写体の遺族も来場 平和 思い巡らす
会場には各界の関係者も足を運んだ。日本被団協に昨年ノーベル平和賞を授与したノルウェー・ノーベル賞委員会のフリードネス委員長は「核兵器が何をもたらすのか明確に示している」、国連軍縮部欧州事務所(スイス)のレジンバル所長は「繰り返さないために大切な資料」と強調した。
パラグアイやスロバキアの駐日大使らも来場した。リトアニアのジーカス大使は「世界に平和のメッセージを伝えるために重要」、イランのセアダット大使は「大量破壊兵器によるこの惨劇は、世界で起こったことだと理解すべきだ」などと語った。芸能人では広島県出身の吉川晃司さんと綾瀬はるかさんも訪れた。
秋篠宮ご一家は4人そろって1時間余り見学された。写真の中の被災者について、その後の足取りや遺族の所在が粘り強く取材されてきたことに強い関心を寄せた。
会期中はギャラリートークなどのイベントを開催し、報道各社の担当記者たちが資料に関するエピソードや歴史的な背景をひもといた。展示映像に幼い姿が映る被爆者の竹本秀雄さん、「被爆後の市街地に立つ少女」に写る故藤井幸子さんの長男哲伸さんも登壇した。
哲学者の永井玲衣さんによるイベント「ヒロシマを聴き合う」では、100人以上の応募者から抽選で選ばれた30人が参加。展示室で車座になり、互いに「ヒロシマ」「平和」へ思いを巡らせた。
長崎で被爆した日本被団協の田中熙巳(てるみ)代表委員(93)に感想を聞いた。
◇
これだけの規模で写真と映像に特化した展示となれば、見ていて非常に強い印象を受ける。
展示の中に住吉橋(現広島市中区)近くの臨時火葬場の写真があるが、長崎で私の親類たちを焼いた日も、こうして遺体にトタンをかぶせた。まさに同じ。被爆者は高齢になり、こうした生々しい事実を証言できる者が少なくなった。でも写真と映像は、戦争体験がなく、原爆被害を実感することが難しい世代の想像力をかき立てるはずだ。
私は「今、世界で4千発の核兵器がすぐ発射できる状態にある」と各地で伝えている。1発で都市を壊滅させる兵器を抑止として持つという思想は論外だと。被爆地を訪れる機会のない人は大勢いる。各地で写真を公開し、世論の形成に役立ててほしい。長崎の写真についても同様の機会を期待したい。
「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」は5月31日~8月17日に開かれ、中国、朝日、毎日の新聞3社、中国放送と共同通信社が初めて主催した。土台となったのは、国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」の国際登録を目指し、広島市と5報道機関が2023年に共同申請した写真1532点と映像2点。うち写真162点と映像2点を展示した。
(2025年9月8日朝刊掲載)
来場者アンケ 反響さまざま
「今度 広島へ」「今起きてもおかしくない」「撮影者に敬意を」
展示室では、見渡す限りの焦土、市民の死傷、被爆の初期症状や生活の困窮などの実態を写真162点と映像2点によって時系列で伝えた。アンケート回答は「信じられない」「正視に耐えない」といった感情の吐露が目立つ。確かに会場は混雑した日も静かで、多くの人が沈痛な面持ちだった。
広島の出身者から「知ったつもりでいた」と省みる声が複数寄せられた。首都圏在住者の「過去からのバトンを受け継ぎたい」「今度は広島に行きたい」という回答も。私たち担当者は、励まされる思いで読んだ。
「今再び起こってもおかしくない」という訴えや、パレスチナ自治区ガザなど各地の現状への怒りもつづられた。多くが、80年前の悲惨を現代の戦争や非人道状況と重ね合わせていた。
核抑止にすがる日本を批判し、核兵器禁止条約の批准を求める声は根強い。「核兵器は安上がり」と言う政治家もいる中、「世界の政治家が展示を見るべきだ」と書かれた字の筆圧は高かった。
展示は、1945年8月6日から同年末までを、被爆直後、翌日から終戦後まで、被爆から1カ月以降の占領期―の3章に分けた。2025年度の新聞協会賞受賞が決まった中国新聞連載「ヒロシマ ドキュメント」をはじめ、主催した各報道機関の取材で明らかになった生前の撮影者の思いや、被写体となった市民の消息などを写真説明と展示解説に盛り込んだ。
撮影者の皆が抱えた葛藤に、共感が集まった。8月6日の当日、市内の被災者を「許してくださいよ」と涙ながらに撮ったのは元中国新聞社の松重美人(よしと)さんだ。一方で新聞社は、終戦まで国策報道に徹し、プレスコード(報道統制)が敷かれた占領期は原爆報道を封印した。米軍に資料提出を迫られた際は、撮影者たちが写真と映像を守り通した。「写真家たちの勇気に敬意を」。現在に通じる問いでもある。
私たちが伝えたかったのは、人間一人一人の命と尊厳だった。展示の最後に、写真家の林重男氏が残した言葉を掲げた。「このような記録は、私たちの写真が永遠に最後であるように」。来場者の胸に届いたと信じる。
皇族・外交官・芸能人・被写体の遺族も来場 平和 思い巡らす
会場には各界の関係者も足を運んだ。日本被団協に昨年ノーベル平和賞を授与したノルウェー・ノーベル賞委員会のフリードネス委員長は「核兵器が何をもたらすのか明確に示している」、国連軍縮部欧州事務所(スイス)のレジンバル所長は「繰り返さないために大切な資料」と強調した。
パラグアイやスロバキアの駐日大使らも来場した。リトアニアのジーカス大使は「世界に平和のメッセージを伝えるために重要」、イランのセアダット大使は「大量破壊兵器によるこの惨劇は、世界で起こったことだと理解すべきだ」などと語った。芸能人では広島県出身の吉川晃司さんと綾瀬はるかさんも訪れた。
秋篠宮ご一家は4人そろって1時間余り見学された。写真の中の被災者について、その後の足取りや遺族の所在が粘り強く取材されてきたことに強い関心を寄せた。
会期中はギャラリートークなどのイベントを開催し、報道各社の担当記者たちが資料に関するエピソードや歴史的な背景をひもといた。展示映像に幼い姿が映る被爆者の竹本秀雄さん、「被爆後の市街地に立つ少女」に写る故藤井幸子さんの長男哲伸さんも登壇した。
哲学者の永井玲衣さんによるイベント「ヒロシマを聴き合う」では、100人以上の応募者から抽選で選ばれた30人が参加。展示室で車座になり、互いに「ヒロシマ」「平和」へ思いを巡らせた。
「若者の想像力をかき立てるはず」 日本被団協の田中代表委員
長崎で被爆した日本被団協の田中熙巳(てるみ)代表委員(93)に感想を聞いた。
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これだけの規模で写真と映像に特化した展示となれば、見ていて非常に強い印象を受ける。
展示の中に住吉橋(現広島市中区)近くの臨時火葬場の写真があるが、長崎で私の親類たちを焼いた日も、こうして遺体にトタンをかぶせた。まさに同じ。被爆者は高齢になり、こうした生々しい事実を証言できる者が少なくなった。でも写真と映像は、戦争体験がなく、原爆被害を実感することが難しい世代の想像力をかき立てるはずだ。
私は「今、世界で4千発の核兵器がすぐ発射できる状態にある」と各地で伝えている。1発で都市を壊滅させる兵器を抑止として持つという思想は論外だと。被爆地を訪れる機会のない人は大勢いる。各地で写真を公開し、世論の形成に役立ててほしい。長崎の写真についても同様の機会を期待したい。
「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」は5月31日~8月17日に開かれ、中国、朝日、毎日の新聞3社、中国放送と共同通信社が初めて主催した。土台となったのは、国連教育科学文化機関(ユネスコ)「世界の記憶」の国際登録を目指し、広島市と5報道機関が2023年に共同申請した写真1532点と映像2点。うち写真162点と映像2点を展示した。
(2025年9月8日朝刊掲載)