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社説・コラム

『潮流』 「暴力」のレイヤー

■論説委員 森田裕美

 書棚の整理は計画通り進んだためしがない。懐かしい本を手に、ついつい読みふけってしまうから。こないだはフランス作家モーパッサンの「脂肪のかたまり」に引き寄せられた。普仏戦争を背景に、人間社会の縮図を描いた傑作短編である。

 敵の侵略から逃れようと馬車に乗り合わせた人々。敵軍を前にすると、「ブール・ド・シュイフ(脂肪の塊)」というあだ名の娼婦(しょうふ)を説得。敵兵の性の相手をさせ、何とか危機を逃れる。だが戻って来た彼女を待っていたのは侮蔑と疎外…。

 読んだはいいが、暗たんたる気分になった。150年余り前の世界に80年前の旧満州(中国東北部)の現実が重なって。

 ちょうど全国で順次上映中のドキュメンタリー映画「黒川の女たち」を見たところだった。岐阜県から旧満州に渡った黒川開拓団が敗戦直後、団員の命を守るためソ連兵に若い女性を差し出した痛苦な過去を、女性たちの戦後から見つめる。

 人々は口を閉ざし、女性たちは中傷にさらされた。長く封印された記憶は12年前、2人の女性が公の場で語ったことで解かれる。開拓団の遺族会も「不都合な過去」に向き合い、歴史に刻む。女性たちの尊厳は少しずつ取り戻されていく―。

 同時に映画が浮かび上がらせるのは社会の構造的暴力だ。旧満州の人々にとって加害者だった開拓団は国策に躍らされ敗戦時には見捨てられた被害者でもある。その開拓団の中にも犠牲を強いた側、強いられた側がいて二元論では語れぬ複雑なレイヤー(層)を成す。

 集団や組織を守るため弱い立場に犠牲を強いる構図は戦時に限るまい。だから敏感でありたい。今と地続きの過去と、「暴力」のレイヤーに。

(2025年9月6日朝刊掲載)

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