『生きて』 核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表 森滝春子さん(1939年~) <18> 2011年の原発事故
25年9月10日
「核と人類 共存できぬ」痛感
≪母しげの死は、2005年春に核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開かれた米ニューヨークから戻った直後だった≫
私が家を空けている間、東京に住む姉安子が母の世話に来てくれました。私の帰国を待つように、母は逝きました。
平和運動に飛び回りながら、尽くすように在宅介護を貫いたつもりです。不思議なもので、それでも「温かいお茶が好きなのに、忙しくてあの時は冷たい飲み物にしてしまった」などの小さな後悔が今も頭を離れません。私の渡航前は毎回、きれいな包装紙で封筒を作り、黙って餞別(せんべつ)を包んでくれました。母の愛を感じたものです。
≪10年もNPT再検討会議のため渡米。広島の核兵器廃絶運動を主導する存在となっていく中、生前の父市郎が説いた「核と人類は共存できない」の意味を痛感させられる事態が起こる≫
11年3月の東京電力福島第1原発事故です。翌12年11月、イラクの劣化ウラン弾の被害調査で使った線量計を手に、福島県飯舘村や川俣町などを歩きました。放射性物質の拡散は予想以上でした。住民が被曝(ひばく)させられ、避難生活を強いられ、日常となりわいを奪われる。こうなる前にヒロシマからすべきことはあったはずです。ざんきの念にさいなまれました。
原発から14キロ、浪江町の警戒区域内に「希望の牧場」を訪ねました。代表の吉沢正巳さんは被曝した肉牛400頭を殺処分せず、飼い続けていました。出荷できなくなった事故の「生き証人」の命をつなぐという、強烈なまでの抵抗運動です。86年のチョルノービリ(チェルノブイリ)原発事故の後に福島の事故を予見するような詩を書いていた南相馬市の詩人、故若松丈太郎さんとの知己も得ました。
本当は事故後もっと早い時期に福島へ行きたかったのですが…。転移性の肺がんが見つかり、左肺を一部切除して化学療法を受けていたのです。50歳代で両胸を全摘して以来の大きな手術でした。
(2025年9月10日朝刊掲載)