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原民喜文学碑 境内に建立へ 広島東照宮

■記者 桑島美帆

 原爆文学家の原民喜(1905~1951年)が被爆翌日に一夜を過ごした広島東照宮(広島市東区二葉の里)が、原民喜文学碑を境内に建てる計画を進めている。宮司の久保田訓章さん(77)は5日、民喜への思いを重ね、自らの被爆体験を証言する。

 原民喜の作品「夏の花」は、東照宮での一夜など被爆直後に書き留めたメモ「原爆被災時のノート」が基になったことで知られる。文学碑は、このメモにある一節「コハ今後生キノビテコノ有様ヲツタへヨト天ノ命ナランカ」の言葉を刻み、神社入り口にある原爆慰霊碑の横に建てる予定だ。被爆65年となる来年夏の完成を目指す。

 計画を支えるのは、1973年から宮司を務める久保田さんの被爆体験だ。当時、東広島市八本松町へ疎開していて廃虚の広島に戻ったのは原爆投下3日後。東照宮近くの饒津(にぎつ)神社(東区)で被爆した父は大やけどを負っていた。祖父母のいる東照宮は重体患者の救護所となり、息絶えた遺体も並んでいた。建物疎開に出ていた幼なじみもほとんどが亡くなった。

 久保田さんは、被爆者への偏見を感じたこともあり、自らの体験を進んで語ってはこなかったという。だが2003年末、原民喜研究を続ける「広島花幻忌の会」から機関紙への寄稿を頼まれ、被爆体験の継承を「天命」と記した民喜の思いを知った。以来、境内で子どもたちを見かけると、おのずと胸中の一端を語る。

 「あの惨状にあっても民喜は継承を思いたった。自分が口を閉ざすわけにはいかない」と久保田さん。

 5日には市内の原民喜ゆかりの地を巡る市民団体主催の催し「『夏の花』を歩く」があり、久保田さんは東照宮境内で参加者に証言する。自身の記憶と重ね合わせながら、民喜が残した言葉を紡ぐつもりだ。

(2009年8月5日朝刊掲載)

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