[無言の証人] 印鑑 家族の死亡届 押した悲しみ
25年9月22日
今も朱肉が残っているように見える角印と丸印。1945年8月6日、広島市白島九軒町(現中区)の宝勝院住職だった国分智徳(くにわけちとく)さん=当時(46)=の胸ポケットで被爆した。国分さんが「何かのときのため」と肌身離さずにいた二つの印鑑はその後、肉親4人の死亡届に押されることにもなった。
妻と3男4女の9人家族だった国分さん。爆心地から約1・8キロの自宅を兼ねた寺院内にいた。被爆後、建物の下敷きになったものの脱出。子3人を連れ、火の手が上がる寺を後にした。しかし、妻ハルコさん=当時(41)、三女和子さん=同(7)、四男宥信(ひろのぶ)ちゃん=同(1)=は逃げられず死亡した。動員先の工場にいた長女は無事だったが、建物疎開作業に出た次女で安芸高等女学校(のちに廃校)2年の郁子さん=同(14)=も命を奪われた。
二つの印鑑は戦後、国分さんが机の引き出しに大事にしまっていたという。4人の名前がある「死亡届」の控えと共に―。その書類には、角印と丸印がそれぞれ押されていた。
国分さんは72年に73歳で死去。あの日、一緒に逃げて助かった次男良徳(よしのり)さん(2023年に94歳で死去)が寺を継ぎ、二つの印鑑を他の被爆遺物と一緒に寺の戸棚で保管していた。16年、原爆資料館(中区)へ寄贈した。 良徳さんの妻イツコさん(92)は「夫は『父がとても大事にしていた』とよく話していた」と思い返す。肉親を奪われた被爆者の悲しみを静かに伝えている。(頼金育美)
(2025年9月22日朝刊掲載)
妻と3男4女の9人家族だった国分さん。爆心地から約1・8キロの自宅を兼ねた寺院内にいた。被爆後、建物の下敷きになったものの脱出。子3人を連れ、火の手が上がる寺を後にした。しかし、妻ハルコさん=当時(41)、三女和子さん=同(7)、四男宥信(ひろのぶ)ちゃん=同(1)=は逃げられず死亡した。動員先の工場にいた長女は無事だったが、建物疎開作業に出た次女で安芸高等女学校(のちに廃校)2年の郁子さん=同(14)=も命を奪われた。
二つの印鑑は戦後、国分さんが机の引き出しに大事にしまっていたという。4人の名前がある「死亡届」の控えと共に―。その書類には、角印と丸印がそれぞれ押されていた。
国分さんは72年に73歳で死去。あの日、一緒に逃げて助かった次男良徳(よしのり)さん(2023年に94歳で死去)が寺を継ぎ、二つの印鑑を他の被爆遺物と一緒に寺の戸棚で保管していた。16年、原爆資料館(中区)へ寄贈した。 良徳さんの妻イツコさん(92)は「夫は『父がとても大事にしていた』とよく話していた」と思い返す。肉親を奪われた被爆者の悲しみを静かに伝えている。(頼金育美)
(2025年9月22日朝刊掲載)