[歩く 聞く 考える] 音楽家と平和 人類の危機に声上げ続ける 音楽評論家・作詞家 湯川れい子さん
25年9月24日
音楽評論家で作詞家の湯川れい子さん(89)は、長年にわたり海外の音楽シーンを紹介してきた。大物ミュージシャンと親交が深く、彼らが発する平和の思いに触れてきた。54年前の広島で実現した英国の伝説的ロックバンド「レッド・ツェッペリン」の公演にも同行している。戦後80年の節目に振り返ってもらうとともに、核兵器廃絶への思いを聞いた。(論説主幹・山中和久、写真・山田太一)
―音楽家人生の原点を教えてください。
戦争とは切り離せません。父は海軍大佐で軍令部に勤めていました。18歳上の長兄は陸軍、15歳上の次兄は海軍へ入隊。父は戦況悪化の中で激務がたたり、1944年4月に肺炎で急死しました。私は母、姉と母の実家がある山形県米沢市に疎開しました。終戦の4カ月前には長兄がフィリピンで戦死しました。
戦争の影が色濃くなる前の東京・目黒の家は音楽にあふれていました。週末には両親がダンスをして、長兄と姉はピアノを弾いていました。長兄が空襲に備えて防空壕(ごう)を掘ってくれた際、口笛で奏でていたメロディーが頭から離れなかった。「兄ちゃまが作った」と言ってましたが、戦後、進駐軍のラジオ放送からあのメロディーが流れてきました。「スリーピー・ラグーン」という曲。当時は敵性音楽だから明かせなかったのです。私が米国の音楽に興味を持つきっかけになりました。
―洋楽の伝道者となられ、レッド・ツェッペリンの来日公演に同行されています。71年9月、旧広島県立体育館での広島公演は「愛と平和」を掲げたチャリティーでした。
当時は東京や大阪以外で海外のミュージシャンがコンサートを開くのは珍しかった。人気も実力も絶頂期に差しかかっていた4人組がこの2都市に加え、なぜ広島を選んだのか。本人らの希望か、レコード会社の企画だったかは分かりません。
広島入りして時間があったので、彼らに原爆資料館の見学を勧めました。外で待っているとボーカルのロバート・プラントもギターのジミー・ペイジも目を真っ赤に泣き腫らして出てきました。心を揺さぶられたその足で広島市長に面会し、夜の広島公演の売り上げから4人の取り分約700万円を寄付しました。
―ペイジさんは当時の市長に「戦争を知らない私たちの心の中にも、人類が原爆を落としたことへの恥ずかしさがある」と述べています。20代の人類視点に驚きます。
彼らは核兵器が落とされた場所には草木一本も生えていない、ぐらいのイメージしか持っていなかったのかもしれない。それだけ衝撃は大きかったのでしょう。ただ世界を股にかけて音楽をやり、グローバルな視点でものを見ていたのは間違いありません。
―オノ・ヨーコさんとは特に親しくされていました。夫のジョン・レノンさんの名曲「イマジン」はいかにして誕生したのでしょうか。
「イマジン」はもともとヨーコさんから出てきたものだ、とジョンは言ってました。戦争中に何にも食べるものがない時、ヨーコさんはおなかがすいたという弟に「想像してごらん」と言ったそうです。匂いや味を感じようとするだけで唾が湧いてくる。これってすごいことなのよって。そんな子どもの頃の思い出も含め、2人の間にはいつも会話がありました。
各地で戦争が起きるたび、メッセージが欲しいとヨーコさんに頼んでいました。「War is over! if you want it(戦争は終わる。もし君が望むなら)」と送ってくれました。たまには違う言葉を、とお願いしたら「戦争がいけないことはみんな分かっている。やめられるものなら、すぐにやめたいとも思っている。だからこの言葉しかない」と。もう憎たらしいくらい正解なんですね。
―ご自身も核廃絶に熱心に取り組んでこられました。
核兵器は子どもや女性、お年寄りを含め、一挙に無残に無辜(むこ)の命を奪う。絶対に使ってはいけません。例えば(ロシアの)プーチン大統領みたいな人が持ったら危ないと、いいかげん分かったはず。核兵器は人間が造った物。だから人間がゼロにするしかありません。
同時に、私にとって反核や環境問題は日常的な話題です。梅干しは体にいい、というのと同じ話なんです。
―ロシアがウクライナに侵攻した際には、すぐに交流サイト(SNS)に「人間は愚かです」と発信されました。
感性で仕事をしている人は、人類や地球の危機には本能的に敏感になるのです。私だけでなく、ヨーコさんやスティングさんら多くの音楽家が声を上げています。
さまざまな団体の役員を務める中で「政治的な発言は控えてもらった方がいいんだよね」と散々言われてきました。しかし言うべきことを言わなかったら文化人としての存在理由はありません。昔、炭鉱では有毒ガスの危険を察知するためカナリアが飼われていました。私は「時代のカナリア」であり続けたいと思います。
ゆかわ・れいこ
東京都目黒区生まれ。1960年、女性初のジャズ評論家に。ビートルズ来日時に単独インタビューに成功。独自の視点でロックやポップスの評論・解説を手掛け、ラジオ番組「全米TOP40」のDJも務めた。作詞家として「ランナウェイ」「センチメンタル・ジャーニー」「六本木心中」などヒット曲多数。藤井風さんの最新アルバム「Prema」のライナーノーツを担当した。
(2025年9月24日朝刊掲載)
―音楽家人生の原点を教えてください。
戦争とは切り離せません。父は海軍大佐で軍令部に勤めていました。18歳上の長兄は陸軍、15歳上の次兄は海軍へ入隊。父は戦況悪化の中で激務がたたり、1944年4月に肺炎で急死しました。私は母、姉と母の実家がある山形県米沢市に疎開しました。終戦の4カ月前には長兄がフィリピンで戦死しました。
戦争の影が色濃くなる前の東京・目黒の家は音楽にあふれていました。週末には両親がダンスをして、長兄と姉はピアノを弾いていました。長兄が空襲に備えて防空壕(ごう)を掘ってくれた際、口笛で奏でていたメロディーが頭から離れなかった。「兄ちゃまが作った」と言ってましたが、戦後、進駐軍のラジオ放送からあのメロディーが流れてきました。「スリーピー・ラグーン」という曲。当時は敵性音楽だから明かせなかったのです。私が米国の音楽に興味を持つきっかけになりました。
―洋楽の伝道者となられ、レッド・ツェッペリンの来日公演に同行されています。71年9月、旧広島県立体育館での広島公演は「愛と平和」を掲げたチャリティーでした。
当時は東京や大阪以外で海外のミュージシャンがコンサートを開くのは珍しかった。人気も実力も絶頂期に差しかかっていた4人組がこの2都市に加え、なぜ広島を選んだのか。本人らの希望か、レコード会社の企画だったかは分かりません。
広島入りして時間があったので、彼らに原爆資料館の見学を勧めました。外で待っているとボーカルのロバート・プラントもギターのジミー・ペイジも目を真っ赤に泣き腫らして出てきました。心を揺さぶられたその足で広島市長に面会し、夜の広島公演の売り上げから4人の取り分約700万円を寄付しました。
―ペイジさんは当時の市長に「戦争を知らない私たちの心の中にも、人類が原爆を落としたことへの恥ずかしさがある」と述べています。20代の人類視点に驚きます。
彼らは核兵器が落とされた場所には草木一本も生えていない、ぐらいのイメージしか持っていなかったのかもしれない。それだけ衝撃は大きかったのでしょう。ただ世界を股にかけて音楽をやり、グローバルな視点でものを見ていたのは間違いありません。
―オノ・ヨーコさんとは特に親しくされていました。夫のジョン・レノンさんの名曲「イマジン」はいかにして誕生したのでしょうか。
「イマジン」はもともとヨーコさんから出てきたものだ、とジョンは言ってました。戦争中に何にも食べるものがない時、ヨーコさんはおなかがすいたという弟に「想像してごらん」と言ったそうです。匂いや味を感じようとするだけで唾が湧いてくる。これってすごいことなのよって。そんな子どもの頃の思い出も含め、2人の間にはいつも会話がありました。
各地で戦争が起きるたび、メッセージが欲しいとヨーコさんに頼んでいました。「War is over! if you want it(戦争は終わる。もし君が望むなら)」と送ってくれました。たまには違う言葉を、とお願いしたら「戦争がいけないことはみんな分かっている。やめられるものなら、すぐにやめたいとも思っている。だからこの言葉しかない」と。もう憎たらしいくらい正解なんですね。
―ご自身も核廃絶に熱心に取り組んでこられました。
核兵器は子どもや女性、お年寄りを含め、一挙に無残に無辜(むこ)の命を奪う。絶対に使ってはいけません。例えば(ロシアの)プーチン大統領みたいな人が持ったら危ないと、いいかげん分かったはず。核兵器は人間が造った物。だから人間がゼロにするしかありません。
同時に、私にとって反核や環境問題は日常的な話題です。梅干しは体にいい、というのと同じ話なんです。
―ロシアがウクライナに侵攻した際には、すぐに交流サイト(SNS)に「人間は愚かです」と発信されました。
感性で仕事をしている人は、人類や地球の危機には本能的に敏感になるのです。私だけでなく、ヨーコさんやスティングさんら多くの音楽家が声を上げています。
さまざまな団体の役員を務める中で「政治的な発言は控えてもらった方がいいんだよね」と散々言われてきました。しかし言うべきことを言わなかったら文化人としての存在理由はありません。昔、炭鉱では有毒ガスの危険を察知するためカナリアが飼われていました。私は「時代のカナリア」であり続けたいと思います。
ゆかわ・れいこ
東京都目黒区生まれ。1960年、女性初のジャズ評論家に。ビートルズ来日時に単独インタビューに成功。独自の視点でロックやポップスの評論・解説を手掛け、ラジオ番組「全米TOP40」のDJも務めた。作詞家として「ランナウェイ」「センチメンタル・ジャーニー」「六本木心中」などヒット曲多数。藤井風さんの最新アルバム「Prema」のライナーノーツを担当した。
(2025年9月24日朝刊掲載)