被団協ノーベル賞発表1年 <上> 追い風と限界
25年10月6日
核問題 関心の高まり実感
高齢化 かつての勢いなく
9月下旬。残暑厳しい広島市中区の平和記念公園に被爆者たちの姿があった。広島県被団協(箕牧(みまき)智之理事長)など、被爆者7団体のメンバーたち。政府に核兵器禁止条約への参加を迫るため、4年前から2カ月に1度、街頭署名に立つ。
「二度と被爆者を生んではならないと訴え続け、『核のタブー』ができた。しかし今、核兵器が使われかねない瀬戸際にあります」。もう一つの県被団協の佐久間邦彦理事長(80)=西区=が、声を張り上げた。
核のタブーとは「核使用は道徳上許されない」という規範意識のこと。その確立に貢献したとしてノーベル賞委員会は2024年10月11日、日本被団協への平和賞授与を発表した。その後、協力者はぐっと増えたという。以前は100筆を切ることが多かったが、この日も約30分で170筆を集めた。佐久間理事長は「訴えに耳を傾けてくれる人も増えた」と喜ぶ。
証言要請相次ぐ
「ニホンヒダンキョウ」の知名度は海外でも高まったようだ。事務局によると、ここ1年間に証言の要請が相次ぎ、核保有国の米国とフランスを含む6カ国に延べ10人を派遣した。
日本被団協の代表委員でもある箕牧理事長(83)=同県北広島町=も8月下旬にイタリアへ赴き、約3千人を前に講演した。受賞発表後に欧州や中東、南米のメディア取材も受け、核問題への関心の高まりを実感したという。
ただ、その表情はさえない。「受賞で世界が平和になったわけじゃない。私らに残された時間は少ないのに戦争がなくならない」。最近は自宅から平和記念公園へ通うにも、バスセンターから約500メートルの道のりを歩くのがつらいという。「3回は座り込む。体の衰えは速く、核廃絶の動きはあまりに遅い」
うねり起こせず
1956年の結成時から、核兵器廃絶と原爆被害への国家補償の2大要求を掲げてきた被団協。かつての運動には勢いがあった。冷戦のさなか、マンハッタンで反核を訴える大行進を決行。夜を徹して旧厚生省前に座り込んだこともある。ただ被爆者の平均年齢は、今や86歳を超えた。「みな年を取った。受賞に込められた期待に応え切れていない」。田中熙巳(てるみ)代表委員(93)=埼玉県新座市=は悔しがる。
被団協は受賞後に「被爆80年の大運動」を打ち出したが、目指したほどのうねりを起こせていない。平和賞の賞金約1億5千万円の使い道さえ、一部しか決められずにいる。6月には健康上の理由で事務局長が退いた。50歳の頃から運動を支えてきた古参の一人、木戸季市さん(85)=岐阜市。本人も「いつ核戦争が起きるかもしれない大事な時期なのに」と無念さを口にする。
「運動とは声を出し、体を動かし、相手を動かすこと」。田中代表委員は強調する。「もう運動ができる組織ではなくなった。先を考えないと」。今年の総会では組織運営の在り方について、来年6月には一定の結論を出そうと申し合わせた。あと8カ月余り。妙案はまだ見えない。(宮野史康、下高充生)
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日本被団協のノーベル平和賞受賞は、反核平和運動に追い風を吹かせた半面、重い課題も突き付けた。発表後の1年間を振り返り、運動の今後を見つめる。
(2025年10月6日朝刊掲載)