[無言の証人] 消しゴム 革かばんの中 大事に
25年10月6日
表面は黒ずみ、小石のように見える消しゴム。印字された銘柄はうっすらと残るが、読み取るのは難しい。
広島市南観音町(現西区)の電気関連会社で勤務中だった渡部鹿之助さん=当時(63)=が、被爆時に持っていた。革かばんの中に、薬入れや印鑑ケースと一緒に入っていたという。消しゴムは仕事で使っていたのだろう。角が丸くすり減っている。戦時中の物資が不足する中、大事に使っていたに違いない。
渡部さんは妻と娘夫婦、孫2人の家族6人で、横川町(現西区)で暮らしていた。1945年8月6日、米軍によって原爆が投下されると、同町一帯は火の海に。渡部さんは頭に軽いけがを負いながら家族の行方を捜したが、自宅にいた妻や子、孫は亡くなっていた。爆心地から約1キロの広島市役所に勤めていた娘の夫の倉一(くらいち)さん=当時(36)=は、一命を取り留めた。
被爆から8年後、渡部さんは亡くなった。残されたのは、この小さな消しゴムを含む革かばん一式。2003年、倉一さんの家族によって原爆資料館(中区)に寄贈された。(頼金育美)
(2025年10月6日朝刊掲載)
広島市南観音町(現西区)の電気関連会社で勤務中だった渡部鹿之助さん=当時(63)=が、被爆時に持っていた。革かばんの中に、薬入れや印鑑ケースと一緒に入っていたという。消しゴムは仕事で使っていたのだろう。角が丸くすり減っている。戦時中の物資が不足する中、大事に使っていたに違いない。
渡部さんは妻と娘夫婦、孫2人の家族6人で、横川町(現西区)で暮らしていた。1945年8月6日、米軍によって原爆が投下されると、同町一帯は火の海に。渡部さんは頭に軽いけがを負いながら家族の行方を捜したが、自宅にいた妻や子、孫は亡くなっていた。爆心地から約1キロの広島市役所に勤めていた娘の夫の倉一(くらいち)さん=当時(36)=は、一命を取り留めた。
被爆から8年後、渡部さんは亡くなった。残されたのは、この小さな消しゴムを含む革かばん一式。2003年、倉一さんの家族によって原爆資料館(中区)に寄贈された。(頼金育美)
(2025年10月6日朝刊掲載)