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[歩く 聞く 考える] 論説委員 加納優 丸木位里没後30年 「非体験者」の表現 継承の力に

 広島出身の画家丸木位里(いり)が94歳で亡くなってから19日で30年になる。妻の俊(とし)と共作した15部の「原爆の図」を筆頭に、戦争や核を鋭く告発した画業は色あせない。被爆・戦後80年の今年はとりわけ多くの人の目に触れただろう。

 誤解されがちだが、丸木夫妻は広島で原爆に遭ったわけではない。不条理に虐げられた人々から証言を集め、絵画で表現するライフワークは、被爆地を時間差で客観、俯瞰(ふかん)したことで生まれたともいえる。被爆や戦争の体験者が刻々と減る今だからこそ、「非体験者」の記録や表現に学ぶべき継承の教訓は多いのではないか。

 原爆の図第1部「幽霊」は当初、「8月6日」というタイトルで世に出た。この原爆投下日、夫妻は700キロ近く離れた浦和市(現さいたま市)にいた。

 位里は8月8日の新聞朝刊で「広島へ新型爆弾」の一報に触れ、慌ててリュックサック一つで汽車に乗り込む。両親や妹たちが北部の郷里飯室村(現広島市安佐北区)を離れ、爆心地から2キロ余りの同市三滝町(現西区)で暮らしていたからだ。位里は汽車を乗り継いで被爆から3日後、俊はさらに遅れて広島に入る。

 むろん自らの目で捉えた惨状が夫妻に与えた影響は大きいだろう。広島に滞在したのは約1カ月。原爆の図でいえば、人々が竹やぶから救援や水を求める様子を描いた第7部「竹やぶ」や、救護活動を描写した第8部「救出」などに実体験が反映されている。ただ、こうした記憶や経験に基づく表現はごく一部に過ぎない。

 何しろこの間、位里は一枚の絵も残していない。俊も風景のスケッチ2枚だけ。学芸員として長年位里を研究してきた、ギャラリー瓦全房(がぜんぼう)(尾道市)の永井明生さん(53)は「救護や日々の暮らしに追われ、記録を残す余裕はなかったのではないか」と推測する。

 一方、永井さんは戦後、位里の描写対象が風景画から人体表現にも広がった点を指摘。戦後すぐの原爆関連の絵といえば、きのこ雲や焼け野原などの風景画ばかりで「わしらが人間を描かねば」と夫妻で決意したためだとされる。

 2人は多くの被爆者の体験談や目撃証言、写真を基に「あの日」に迫ろうとした。原爆の図が全国で展示されるようになると、被爆者から「本当の原爆が分かっとらん」と批判も受けた。三滝町で被爆した位里の妹、大道あやも兄夫婦の絵を「違う」と生涯否定し続けたことがよく知られている。

 夫妻もそんな批判は承知の上だったに違いない。被爆者の証言を集めて発表した絵本「ピカドン」にこんな一文がある。「爆心地の話をつたえてくれる人は、いません」―。原爆の究極の体験者は死者だという怒り、無念が色濃くにじむ。同時に、非体験者として継承に挑もうとする夫妻の覚悟も。

 伝聞の画業の集大成は「沖縄戦の図」14部だろう。5年がかりで沖縄に通い、取材を重ねて地上戦の悲劇を描き上げた。位里は本土の人々が自らの体験から「戦争イコール空襲」と捉えることを危ぶんでいたという。「空襲と地上戦は全く違う。日本人は戦争に対する考え方が甘い。こういう国はまた戦争をするかもしれない」と。

 夫妻の絵を展示する「原爆の図丸木美術館」(埼玉県東松山市)の岡村幸宣学芸員は「体験の濃淡と作品の意義深さは必ずしも比例しない。原爆も丸木夫妻のことも全く知らない世代が、原爆の図を見て新たな表現や視点を生み出してくれるはず」と期待する。

 こうの史代さんの漫画「この世界の片隅に」など、戦争を知らぬ世代の作品は継承の大きな力だ。基町高の生徒が被爆者に話を聞き、描き続ける「原爆の絵」も。それらで誰かが追体験し、また新たな表現で後世に伝えていく―。位里が望んだ未来かもしれない。

(2025年10月16日朝刊掲載)

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