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連載・特集

レイノルズさんの遺産 米平和資料センター50年 <上> 源流

 広島で被爆者を献身的に支え、反核を訴えた米国人平和運動家バーバラ・レイノルズさん(1915~90年)。米国へ戻って75年に設立したウィルミントン大平和資料センターには、自らが集めた資料をはじめ広島の反核・平和運動に関するアーカイブ(保存記録)が大量に収まり、「米国随一」といわれる。現地を訪れ、レイノルズさんの生きざまやその遺産を見つめた。(山本祐司)

「弱者の支え」生きざまに

 米オハイオ州の州都コロンバスから車で約1時間。人口約3千人の村、イエロースプリングスはリゾート地のような雰囲気だった。メインストリートにはおしゃれな飲食店が並び、観光客でにぎわう。一方で裏通りに入ると、閑静な住宅地が広がる。

 広島市のNPO法人ワールド・フレンドシップ・センター(WFC)の平和使節団が現地を訪れたのは、ある一軒家を見るためだった。「バーバラは来日直前まであの家に住んでいた」。かつてWFCの館長を務め、現在はコロンバスに住むダニー・オットーさん(72)が案内してくれた。

 WFCを設立したバーバラ・レイノルズさんが来日したのは1951年。夫アールさんが比治山(南区)の上にある原爆傷害調査委員会(ABCC、現放射線影響研究所)の研究員になり、連れ立った。ここには8年ほど住んでいたという。

 住民の許可を得て敷地を踏んだ。建物は19世紀前半に建てられ、2階は二重れんがの頑丈な造りという。オットーさんによると、当時のアールさんは近くのアンティオック大で教え、レイノルズさんは子ども向けの本を数冊出版していた。

 「こんな生活を手放してまで被爆者を助けたなんて…」。使節団メンバーで被爆2世の甲斐晶子さん(69)=東区=が漏らした。一行が知る彼女は、原爆の悲惨を伝えた草の根の運動家であり、私財をなげうって被爆者の自立を支えた人だ。

 オットーさんが説明を続けた。アンティオック大は1850年の創立以来、男女や黒人の学生を平等に受け入れ、地域も南部からの黒人奴隷の逃亡を助け、カナダでの自由な生活を後押しした。住民は反戦・非暴力を貫くクエーカー教徒が多く、レイノルズ夫妻も後に入信した。

 弱者と同じ立場に身を置き、手を差し伸べる姿勢はこの土地が育んだのかもしれない。日本で出会った被爆者たちと欧米などを巡り、WFC設立に取り組んだレイノルズさん。それらの活動などを記録した資料群が基になり、ウィルミントン大平和資料センターは生まれた。全米で最大規模の原爆アーカイブズ(文書館)に発展し、世界中から研究者が訪れている。

(2025年10月23日朝刊掲載)

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