緑地帯 佐々木博光 アマチュア映像65年の歩み④
25年10月24日
1982年に「ちちをかえせ ははをかえせ」(29分)というタイトルの作品を共同制作した。当時、月例会に出る会員27人を調べたところ本人と親族を合わせて被爆者が72人、うち被爆死が21人いた。そこで会員2人が生々しい被爆体験を語るこの作品を制作した。
1人は、自身が被爆、父が行方不明、息子を原爆で失った中畝健雄さん。広島電鉄白島線終点付近の広島逓信局に出勤し、机に着いた瞬間、黄色い閃光(せんこう)と爆風で気を失った。気が付くと5メートル吹き飛ばされ、足が書棚の下敷きになって動けない。渾身(こんしん)の力で書棚を浮かせて足を抜き、近くの縮景園に逃げた。池に死体が浮かび、被爆者がひしめき、うめいていた。ある軍人が「『天皇陛下バンザーイ』と叫び倒れた」と語っている。
小学生の息子は観音町(現広島市西区)で被爆。高宮町(現安芸高田市)の疎開先へ集まった時には元気だった。だが半月後、「腹が痛い、腹が痛い」と畳の上を狂い回り、亡くなった。
もう1人は矢野善曠(よしひろ)さん。18歳の時、横川町(現西区)の自宅で被爆。母は郊外へ食料の買い出しに出かけていて、自宅には1人だった。真っ暗な木造の自宅からはい出し、助かった。逃げる途中、川岸へ上ろうとしていた工兵隊員の手を引っ張ると、やけどをした手が「ずるっと抜けて引き上げられなかった」。再会した母、姉と竹やぶで3週間暮らした。母は9月に死去。遺体を河原に運び、穴を掘って焼いた。(広島エイト倶楽部理事=広島市)
(2025年10月24日朝刊掲載)
1人は、自身が被爆、父が行方不明、息子を原爆で失った中畝健雄さん。広島電鉄白島線終点付近の広島逓信局に出勤し、机に着いた瞬間、黄色い閃光(せんこう)と爆風で気を失った。気が付くと5メートル吹き飛ばされ、足が書棚の下敷きになって動けない。渾身(こんしん)の力で書棚を浮かせて足を抜き、近くの縮景園に逃げた。池に死体が浮かび、被爆者がひしめき、うめいていた。ある軍人が「『天皇陛下バンザーイ』と叫び倒れた」と語っている。
小学生の息子は観音町(現広島市西区)で被爆。高宮町(現安芸高田市)の疎開先へ集まった時には元気だった。だが半月後、「腹が痛い、腹が痛い」と畳の上を狂い回り、亡くなった。
もう1人は矢野善曠(よしひろ)さん。18歳の時、横川町(現西区)の自宅で被爆。母は郊外へ食料の買い出しに出かけていて、自宅には1人だった。真っ暗な木造の自宅からはい出し、助かった。逃げる途中、川岸へ上ろうとしていた工兵隊員の手を引っ張ると、やけどをした手が「ずるっと抜けて引き上げられなかった」。再会した母、姉と竹やぶで3週間暮らした。母は9月に死去。遺体を河原に運び、穴を掘って焼いた。(広島エイト倶楽部理事=広島市)
(2025年10月24日朝刊掲載)








