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社説・コラム

『今を読む』 映画監督・甲南女子大特任教授 池谷薫(いけやかおる) 「蟻の兵隊」と戦後80年

「戦争の手触り」映画でリアルに

 日本の敗戦後も中国で戦争を強いられた旧日本軍兵士を追った映画「蟻(あり)の兵隊」(2006年)が戦後80年の今年、全国各地で相次ぎ上映されている。20年ほど前に私が監督した作品だが、戦前を思わせる国内政治状況や、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルによるガザ攻撃といった現実の戦争を前に、今の方が「旬」のテーマになっていることに驚く。

 特に今、私は若者に見てもらう動きを加速させている。これまでも私が勤める大学はもちろん全国の大学の授業でこの映画を上映してきた。戦争とは何か、考えてほしいからだ。そうしてまいてきた種が芽生えているのだと思う。

 関東関西の都市圏をはじめ東北から沖縄まで全国の大学で、学生が中心となって自主上映会を開く動きが生まれている。すでに今年は20校で上映会が開かれた。そしてうれしいことにその勢いは、高校にまで広がっている。

 「蟻の兵隊」は敗戦後も武装解除されず中国に残って国共内戦を戦った元日本兵たちを撮った映画だ。元残留兵の一人、奥村和一さん(2011年に86歳で死去)を主人公に、悲惨な戦争の実態と国家権力の闇に迫った。

 中国山西省に駐屯していた奥村さんたち兵士約2600人は、軍の命令で残留させられ、国民党系軍閥の部隊として中国共産党軍と3年8カ月にわたって死闘を強いられた。日本の「戦後」の戦死者は約550人にも上る。残留の背景には、戦犯容疑を恐れた司令官と中国の軍閥との間に密約があったとされている。

 共産党軍の捕虜になった奥村さんが帰国できたのは1954年。ところが戦後の日本政府は「兵士らが志願して残った」として補償しなかった。「祖国復興」を大義として戦った元日本兵は、祖国に捨てられたのである。

 映画では、残留の真相を明らかにしようと国を訴えた奥村さんら元残留兵の執念を追った。奥村さんの尊厳をかけた闘いはすさまじかった。

 「蟻の兵隊」の最大の特徴は、戦争を被害と加害の両面から描いた点にあると思う。「戦後」も戦争を強いられた奥村さんは紛れもなく被害者だが、己の戦争と向き合ううちに加害者でもある自分から逃れられなくなるのだ。例えば奥村さんは「初年兵教育」として何の罪もない中国人を銃剣で刺し殺すよう命じられた。奥村さんの手には銃剣が相手の心臓にすっと入っていく感触が残っていたという。映画ではそんな「戦争の手触り」を語ってくれている。

 奥村さんが生きていたら101歳。つまり元日本兵は今、もうほとんどいないということでもある。しかし奥村さんはスクリーンの中に生きている。戦後80年がたち、今の学生が元日本兵から直接話を聞く機会はほぼないといえるだろう。だからこそ、この映画を活用して「伝えないと」と思うようになった。

 学生たちと接していて感じるのは、今の若者は戦争との距離が「近い」ということだ。国内の不寛容で排外的な動きに危機感を持っている人も少なくない。それだけではなく、彼らは交流サイト(SNS)でガザやウクライナともつながり、戦争をリアルに捉えている。自分や恋人の身に置き換え、ネットで徴兵制について検索したりして苦しんでいる学生もいる。

 戦争とは何か。自分たちの未来をかけて学生たちはいま向き合おうとしている。真剣なまなざしでスクリーンを見つめている。ひとたび戦争になれば、死ぬまでその人を離さない戦争の過酷さを、自分自身に引きつけ、リアルに感じているのではないか。

 上映後に学生たちはそれぞれ思いを語ってくれる。日本人と中国人の両親から生まれたという学生は、家庭で戦争の話題を避けてきたことを明かしてくれた。学生たちの気付きや感想は私にとっても大いに刺激になる。

 私の父が広島で被爆した体験を初めて語ってくれたのは私が18歳の時。以来、被爆2世として自分の中にある「戦争」を常に意識してきた。それが「蟻の兵隊」製作の原動力でもあった。広島の大学でも上映して学生たちと語り合いたい。

 上映の問い合わせは☎090(4096)3974(池谷)かメールgon‐ren@wa2.so‐net.ne.jp

 1958年東京都生まれ。同志社大卒。2002年「延安の娘」で映画監督デビュー。「蟻の兵隊」で香港国際映画祭人道に関する優秀映画賞、「先祖になる」でベルリン国際映画祭エキュメニカル賞特別賞、文化庁映画賞大賞。神戸市在住。

(2025年10月25日朝刊掲載)

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