広島と映画 <16> 広島フィルム・コミッション 西﨑智子さん 「二十四時間の情事/ヒロシマ・モナムール」 監督 アラン・レネ(1959年公開)
25年10月25日
名作 記憶刻んだ街と共鳴
「あの映画の地、広島」と感慨深く語る方々との出会いから、私に映画の持つ力を実感させてくれた作品。それが日仏合作映画「二十四時間の情事/ヒロシマ・モナムール」だ。映画を切り口に広島を知ってもらおうと、フィルム・コミッション業務に携わり、撮影のサポートを続けてきた。「フランス人は全員見ている」と断言されたこともあり、映画人への自己紹介はいつも「『ヒロシマ・モナムール』の広島から来ました」だった。 原爆で家族を失った建築家の男性と、映画撮影のため広島を訪れたフランスの女優―。冒頭、抱き合う2人の背中には死の灰とおぼしきものが降り注ぎ、被爆の惨状を訴える映像には関川秀雄監督「ひろしま」も引用されている。レネ監督が描く、戦争で傷ついた男女。その愛を通して記憶と忘却について考えさせられる作品だ。
同時に、モノクロで写し撮られた1950年代の広島の街並みは、原爆の傷痕とともに確かな復興期の息づかいを感じさせる貴重な歴史的資料でもある。半世紀を経て2008年に広島を再訪した主演女優のエマニュエル・リバさんが「常に広島を思っていた」と、街の復興を心から喜ぶ姿に涙があふれた。リバさんもまた、広島の傷痕を心に焼き付けていたのだ。リクエストに応えて案内したのは平和記念公園内の広島国際会議場。市公会堂に併設された「新広島ホテル」があった場所だ。何度も立ち止まり、感情があふれ出す姿は印象的だった。
第94回米アカデミー賞国際長編映画賞をはじめ世界中から称賛を受けた映画「ドライブ・マイ・カー」のチームが広島を下見に来た時、濱口竜介監督やプロデューサーはきっとお好きだろうと思い、「リバさんを好きな人はいますか」と質問してみた。思った通り、全員の手が元気に挙がった。であれば、と急きょリバさんを案内した部屋を見てもらった。後日、「広島を舞台に撮影します」と台本が届き、「あの部屋も絶対撮影したい」と添えられていた。劇中には演劇祭事務局として登場する。
美しい広島の街並みがフルカラーで広がる「ドライブ・マイ・カー」は、「ヒロシマ・モナムール」へのオマージュといえるだろう。21年の広島国際映画祭で濱口監督が「『ドライブ・マイ・カー』は傷ついた主人公が再生する物語であり、大きな傷を負いながらも復興を果たした広島がぴったりの舞台だった」と語ったのは忘れられない。そして今、「『ドライブ・マイ・カー』の広島から来ました」とも言えることに感謝している。
名作が生まれたのは奇跡ではない。物語を豊かに深めたのは、重層的な記憶を刻んだ広島の街ではなかったか。だからこそ、これからも街と共鳴する映画が生み出されるよう全力でサポートしたいと思うのだ。映画の力を信じているから。
にしざき・ともこ
1966年、高松市生まれ。広島フィルム・コミッションに2003年から勤務し、映画やドラマ、CMなど広島を舞台とする映像制作を支援。04年の「父と暮せば」以来、「夕凪(ゆうなぎ)の街 桜の国」「この世界の片隅に」「孤狼(ころう)の血」など関わった映画は約200本。国際フィルムコミッショナー。広島国際映画祭プログラムディレクター。
はと
1981年、大竹市生まれ。本名秦景子。絵画、グラフィックデザイン、こま撮りアニメーション、舞台美術など幅広い造形芸術を手がける。
作品データ
日仏合作/91分/大映、パテ・オーバーシーズ
【原作・脚本】マルグリット・デュラス【撮影】サッシャ・ビエルニ、高橋通夫【音楽】ジョバンニ・フスコ、ジョルジュ・ドルリュー【美術】アントワーヌ・マヨ、江坂実
【出演】岡田英次、ステラ・ダサス、ピエール・バルボー、ベルナール・フレッソン
(2025年10月25日朝刊掲載)








