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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 「満蒙開拓」の加害性 戦後の「物語」 点検し脱する時だ 劇作家・精神科医 胡桃沢伸さん

 日本の国策として敗戦までに約27万人を旧満州(中国東北部)に送り出したとされる「満蒙(まんもう)開拓」。広島県からも1万1千人余りが海を渡った。敗戦後の集団自決(集団死)や中国残留孤児・婦人といった悲劇は一定に知られていよう。劇作家で精神科医の胡桃沢伸さん(59)=大阪府=は、開拓団を送り出した祖父の体験から満蒙開拓の加害性に迫り、作品で世に問う。戦後80年、この歴史に向き合うことはどんな意味を持つのか。考えを聞いた。(論説委員・森田裕美、写真も)

 ―出身地長野は都道府県で最多の3万人以上を旧満州に送っています。満蒙開拓は身近な問題でしたか。
 子どもの頃、同じ学校に中国からの帰国者がいたり残留孤児のニュースに触れたりしました。ただ自分の問題としては考えていませんでした。

 ―おじいさんは戦中、長野県河野村(現豊丘村)の村長でした。
 国策に協力して「分村」を決意し90人以上を送り出しましたが、敗戦で大半が集団死に追い込まれました。事実を知った祖父は責任を感じ翌年自死しました。それを私が知ったのは37歳の時。空が割れるくらい衝撃を受けました。

 ―なぜ知ったのですか。
 2004年に両親が祖父の残した日記を飯田市歴史研究所に寄贈し、それを報じた新聞記事を友人が見せてくれ、事実を知りました。驚いて実家に連絡すると村の開拓団の証言集が送られてきました。敗戦後、開拓団員が逃げ場を失い、互いを手にかけた集団死の実情を知りました。

 ―日記も読みましたか。
 いえ、長い間読めませんでした。集団死を生き延びた人に後日、体験を聞きましたが、事実が重過ぎて…。精神科医としてトラウマ治療にも携わっていたのに、スランプに陥り、どうしていいか分からなくなりました。

 ―それから約10年後、満蒙開拓平和記念館(長野県阿智村)で初めて公の場でおじいさんについて話しました。
 記念館の旧知のスタッフから声がかかり、引き受けました。安保法制など戦争を招きかねない当時の政治の動きも背景にありました。悩んでいた時期に通った大阪文学学校で在日コリアンの詩人金時鐘(キム・シジョン)さんから、既成の通念に寄りかからない言葉で、現状を認識し、表現する姿勢を学んだことも大きかった。

 人前で話した後、地元放送局の取材を受け、そのために日記を読みました。村の開拓団が送り出された中国・長春も訪ね、「開拓」の名の下に土地を奪われた現地の人にも会いました。1人ではなかったから向き合えました。

 ―おじいさんは遺書も残していました。
 「開拓民を悲惨な状況に追い込んで申し訳がない。後の面倒が見られぬことが心残りだ」とありました。責任を感じてわびていますが、村民への言葉だけで、中国の人々へは思いが至っていません。

 元々農民の祖父は、日記に農民の地位の低さや地主制への疑問も書いていた。なのに中国の農民から土地を奪い小作として働かせたことには無批判です。そんな祖父を美化してほしくないと思います。

 ―「責任を取った」と美談にされがちですね。
 人の死を「尊い犠牲」とか誰かにとって都合の良い言葉や美化の物語に収めないでほしい。それによって加害の側面が見えなくなり、責任を問われずにいる人が存在することを忘れてはなりません。

 満蒙開拓青少年義勇軍の体験を広島から発信した故末広一郎さんは以前、東京の「拓魂公苑(こうえん)」で、満蒙開拓を顕彰して石碑に刻まれた「拓魂」という文字の上に「鎮魂」と書いた紙を貼り、慰霊しました。侵略を「開拓」として推し進めた欺瞞(ぎまん)を反省せねば、過ちは繰り返されるとの危惧からです。こうした問い直しが重要ではないでしょうか。

 ―今後何ができますか。
 貧しさにつけ込まれ国策に利用された農村は被害者であり加害者でもある。満蒙開拓の歴史からは、戦争がもたらす被害と加害の両面を学べます。ところがそれを立案し推進した側の語りは、80年たった今もほとんど伝えられていない。戦後語られてきた「物語」を点検し脱する時です。

くるみざわ・しん
 長野県生まれ。精神科医として勤務しながら「くるみざわしん」名で精神医療や核・被曝(ひばく)、戦争、性暴力などをテーマに作品を発表。「忠臣蔵・破エートス/死」で2019年文化庁芸術祭賞新人賞。祖父をテーマにした一人芝居「鴨居に朝を刻む」は12月25~28日、東京都世田谷区の下北沢OFF・OFFシアターで上演。☎03(6279)9688(一般社団法人マートルアーツ)

(2025年10月29日朝刊掲載)

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