[被爆80年] 「平和活動の原点」心待ち 広島 1日からパグウォッシュ会議世界大会
25年10月30日
被爆者の内藤さん 湯川博士の言葉 今も胸に
核兵器廃絶を目指す科学者たちでつくる「パグウォッシュ会議」が11月1~5日、広島市で開く世界大会を心待ちにする被爆者がいる。南区の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」の保存活動に取り組んできた内藤達郎さん(83)=佐伯区。青年時代、会議の関連行事で聴いた湯川秀樹博士の講演が、平和活動に踏み出す「原点」となった。今大会がまた、人々の心を揺さぶる機会になるよう願う。(下高充生)
1963年5月。歯科技工士として働きながら国泰寺高(現中区)の定時制に通っていた21歳の内藤さんは、市公会堂(同)を訪れた。壇上には、パグウォッシュ会議の創設に関わった物理学者の湯川博士。戦争が起こると人間が人間でなくなる―。日本初のノーベル賞受賞者が鳴らす警鐘が胸に響いた。
自身も戦中に生まれた。3歳の時、爆心地から4・8キロの仁保町(現南区)の自宅で被爆。外出先の舟入幸町(同中区)で閃光(せんこう)を浴びた母は3年後に他界した。父は勤務先を焼かれ、福岡・筑豊の炭鉱へ。母の死後、内藤さんも姉と共に移った。生活は貧しく、その日の食事を確保するのがやっと。「『炭鉱の子』といじめられもした」と明かす。
周囲を見返したくて、猛勉強した。中学卒業後は歯科医院に住み込みで働き、北九州の夜間学校で学んだ。20歳の時、古里に働き口を見つけた。
帰郷後に聴いたのが、あの講演だった。前年の62年に米ソの核戦争が危ぶまれたキューバ危機が勃発したのも受け、平和の創造を熱く唱える姿に感化された。講演の写真は今も大事にしている。
弁論部で活動していた内藤さんは、その後の大会でパグウォッシュ会議を取り上げ、全国大会にも進んだ。「貧しい中で育った青春時代はコンプレックスの塊だったが、視界が開けた」と振り返る。「戦争や核兵器をなくすために何ができるか、考えるようになりました」。仕事の傍ら、平和記念公園(中区)のガイドを担い、近年は被服支廠の保存署名に注力。県に要望を重ねてきた。
1日開幕の世界大会には、38カ国・地域の科学者たち約150人が集う。内藤さんは、世界の戦禍を念頭に「解決につながる具体的な道筋を示してほしい」と願っている。
(2025年10月30日朝刊掲載)

 
						 
						






