[被爆80年] 「同じ苦しみ経験しないで」 追悼平和祈念館に手記寄せた 広島の高橋さん
25年11月9日
原爆孤児となり苦難の戦後
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館(広島市中区)には本年度、例年にないペースで被爆者の手記が寄せられている。佐伯区の高橋美保子さん(87)も、6月に収めた一人だ。原爆孤児となり、苦難の戦後を強いられた。「記憶が確かなうちに伝えておかねば、と」。被爆80年の節目に筆を執った。(下高充生)
便箋4枚に思いを託した。「若い人には私と同じような辛(つら)い思いや苦しみを経験してほしくありません」(手記)。当時7歳。草津南町(現西区)で両親、姉2人、兄と暮らしていた。その人生はあの朝、一変する。
自身は母や姉と自宅で被爆。昼を過ぎ、大けがをした兄網谷進さん=当時(13)=が、さらに父保太郎さん=同(55)=も変わり果てた姿で帰ってきた。2人は国民義勇隊として、爆心地に近い小網町(現中区)の建物疎開作業に動員されていた。
父のか細い声が今も忘れられない。「家に着くと寝たきりになり、『水、水、水をくれ』と」(手記)。兄は7日、父も8日に息を引き取り、姉たちに付いて近くの畑で荼毘(だび)に付した。「火葬風景は幼心にもショックで夜になると怖くて」(同)
被爆後、父や兄を捜しに行った母アサノさん=同(50)=も体調を崩し、9月24日に逝ってしまった。同じ年に別の兄も戦死しており、一家は戦争で4人の命を失った。
被爆後は長姉が嫁ぎ先から戻ってきたが、8月2日に長女を産んだばかり。やはり夫を原爆に奪われていた。生活は苦しく、高橋さんも中学卒業後、働きながら高校の定時制へ。学費や交通費を工面できず、2年で諦めた。「友達と同じことができず、落ち込んだ。苦しかったです」
23歳で結婚。3人の子どもに恵まれ、今はひ孫もいる。長年、家族にも多くを語ってこなかったが、ある夜、筆を握っていた。「書いておかねば、と。年を重ね、そんな気持ちになりました」
もう一つ理由があるという。「草津南町の157人の方々の事を伝えたい」(手記)。義勇隊として犠牲になった町民の人数だ。「あの頃、近所でよく泣き声が聞こえていました」。年に数回、町内の西部埋立第八公園にある追悼碑に手を合わせてきた。町は埋め立てで様変わりし、住民の代替わりも進む。「人々の無念を忘れないでほしい」。手記が、その一助になるよう願う。
国民義勇隊
第2次世界大戦末期、国が本土決戦に備え、地域や会社ごとに組織させた。空襲に備えて防火帯を造る建物疎開作業、警防活動などに従事。米軍による原爆投下時は草津南町のほか、広島県川内村(現広島市安佐南区)や今の大竹市に当たる玖波町、小方村、大竹町からも多くの住民が市街地に動員され、被爆死した。
(2025年11月9日朝刊掲載)








