国是 非核三原則 被爆者相談所長 山田寿美子さん(82) 終わらぬ被害 直視を
25年11月19日
高市早苗首相が非核三原則の見直しを検討するというニュースを聞き、真っ先に「恥ずかしい」と思った。核兵器が使われたらどうなるか。知らないから、米国の「核の傘」に頼り、日本に核を持ち込む議論までできるのだろう。先の大戦への反省がない。被爆者を冒瀆(ぼうとく)している。国のリーダーとして、本当に恥ずかしい。
2歳で原爆孤児
1945年8月6日、私は疎開先の広島市三滝町(現西区)にいた。両親は市中心部の建物疎開作業に動員され、父は遺骨も見つからなかった。母は大やけどを負いながらも戻ってきたが、23日に息を引き取った。私は2歳で孤児になった。
幼少期から7歳上のいとこと2人で暮らしたり、親戚の家を転々としたり。給食代が払えず、学校へ行くのもつらくなって、家で独りで過ごすことが多かった。ようやく笑えるようになったのは中学を出る頃、嫁ぎ先の岡山市にいた姉に引き取られてからだ。ただ幼少期のつらい記憶のせいか、今でも暗闇の中を逃げ回る夢を見る。
苦しみの声 今も
福祉の仕事に就き、他の原爆被害者とも向き合ってきた。差別を恐れて被爆者健康手帳を取得せず、国の援護を受けられなかった人。原爆に家族を奪われてから孤立し、亡くなる時に遺骨の引き取り手もいなかった人。広島県被団協(佐久間邦彦理事長)の相談所には今なお、心身の苦しみから原爆症認定や手帳取得を求める人が訪れる。
つまり、原爆被害は明らかに終わっていない。なのに核の持ち込みを検討するとは冷酷だ。国はそもそも、戦争被害は国民が等しく我慢せよという「受忍論」を盾に、援護を放射線被害に限ってきた。原爆、戦争被害に思いが至っていない。
私のような思いをする子どもを、もうつくらないでほしい。政治家はもちろん、社会全体が今こそ、非核三原則を打ち立てることにつながった被爆の実態を直視しなければならない。(下高充生)
やまだ・すみこ
広島市中区生まれ。大学で福祉を学び、市内の病院に医療ソーシャルワーカーとして勤務。定年後、東区の自宅に居宅介護支援事業所を開設。80歳を機に閉じた後も、広島県被団協(佐久間邦彦理事長)の被爆者相談所長を担う。同被団協副理事長も務める。
(2025年11月19日朝刊掲載)
2歳で原爆孤児
1945年8月6日、私は疎開先の広島市三滝町(現西区)にいた。両親は市中心部の建物疎開作業に動員され、父は遺骨も見つからなかった。母は大やけどを負いながらも戻ってきたが、23日に息を引き取った。私は2歳で孤児になった。
幼少期から7歳上のいとこと2人で暮らしたり、親戚の家を転々としたり。給食代が払えず、学校へ行くのもつらくなって、家で独りで過ごすことが多かった。ようやく笑えるようになったのは中学を出る頃、嫁ぎ先の岡山市にいた姉に引き取られてからだ。ただ幼少期のつらい記憶のせいか、今でも暗闇の中を逃げ回る夢を見る。
苦しみの声 今も
福祉の仕事に就き、他の原爆被害者とも向き合ってきた。差別を恐れて被爆者健康手帳を取得せず、国の援護を受けられなかった人。原爆に家族を奪われてから孤立し、亡くなる時に遺骨の引き取り手もいなかった人。広島県被団協(佐久間邦彦理事長)の相談所には今なお、心身の苦しみから原爆症認定や手帳取得を求める人が訪れる。
つまり、原爆被害は明らかに終わっていない。なのに核の持ち込みを検討するとは冷酷だ。国はそもそも、戦争被害は国民が等しく我慢せよという「受忍論」を盾に、援護を放射線被害に限ってきた。原爆、戦争被害に思いが至っていない。
私のような思いをする子どもを、もうつくらないでほしい。政治家はもちろん、社会全体が今こそ、非核三原則を打ち立てることにつながった被爆の実態を直視しなければならない。(下高充生)
やまだ・すみこ
広島市中区生まれ。大学で福祉を学び、市内の病院に医療ソーシャルワーカーとして勤務。定年後、東区の自宅に居宅介護支援事業所を開設。80歳を機に閉じた後も、広島県被団協(佐久間邦彦理事長)の被爆者相談所長を担う。同被団協副理事長も務める。
(2025年11月19日朝刊掲載)








