原民喜生誕120年 遺族の秘蔵資料から <中> 家庭内同人誌 創作の源流
25年11月21日
「門外不出」 公開踏み切れず
表紙に白い花があしらわれた愛らしい装丁が印象的な「沈丁花(じんちょうげ)」。中学生だった原民喜が次兄守夫さん(1978年に75歳で死去)たちと大正期に編集した手作りの家庭内同人誌だ。民喜から著作権を継承したおいで、守夫さんの次男、原時彦さん(今年3月に90歳で死去)が生涯、手放さなかった「門外不出」の資料でもある。
幼い頃から豊かな感受性を持ち、口数の少なかった民喜は、11歳だった17年2月、父親が他界したことによりさらに内向きになったと言われる。そんな民喜を文学の道へと導いたのが、守夫さんだった。半年後の8月、民喜は守夫さんに誘われて、家庭内同人誌「ポギー」を制作。号を重ね、自作の詩や俳句、作文を寄せた。
2人は、他のきょうだいも巻き込み、「せれなで」「沈丁花」とタイトルを変えながら、約12年間、家庭内の文芸活動を続けた。時彦さんの長女で、守夫さんの孫に当たる友光民子さん(62)=広島市南区=は「駄目出しの書き込みもあり、祖父を中心に、ごっこ遊びのようにきょうだいで楽しく作っていたんだと思う。民喜はかなり祖父の影響を受けたのではないか」と思いをはせる。
守夫さんの後を追うように、広島高等師範学校付属中(現広島大付属中)に進学した民喜は、同級生の熊平武二さんの勧めで同人誌「少年詩人」に詩を寄稿。国内外のさまざまな文学に親しみ、この頃から小説家を目指すようになった。
時彦さん亡き後、民喜の著作権を引き継いだ民子さんの手元には今、10冊の家庭内同人誌がある。民喜文学の源流が垣間見え、これまでしばしば研究者や報道機関の問い合わせもあった。だが、民子さんは「幼い頃から祖父に『これは門外不出だ』と言われていた。家族のことが書かれており、なかなか公開の踏ん切りがつかない」と複雑な心境を明かす。
このほか、時彦さんから引き継いだ資料は100点余り。51年3月13日夜、民喜が亡くなったことを伝える電報のほか、守夫さんに宛てた遺書、晩年の詩「夜」の原稿など、肉筆資料も30点ほど残っているという。
民喜から1文字をもらった民子さんの名付け親も、守夫さんだった。「著作権継承者の長子だから、という意味もあったのだと思う。原稿や作品を一つ一つ読み、今後の対応を考えていきたい」と話す。 (桑島美帆)
(2025年11月21日朝刊掲載)








