命の原点 「伝える この地から」 妊娠中に被爆の福地さん
09年8月8日
■記者 東海右佐衛門直柄
原爆に光を奪われた。ガラス片を浴びて失明した。音やにおい、そして指の感覚を研ぎ澄まし、5人の子どもを育てた広島市西区草津本町の福地トメ子さん(90)。6日、爆心地から約2キロ、人生が一変した南区松原町に64年ぶりに立った。被爆した日、おなかにいた次女の寺田美津枝さん(63)=安佐南区=が寄り添う。「はぐいい(悔しい)」。ぎゅっと娘の腕をつかんだ。
午前6時20分すぎ。ビルや民家が密集する松原町で、トメ子さんは「土のにおいがするよ。あの日みたいな」と言った。「今はアスファルトだから、しないよ」と美津枝さん。トメ子さんは「するよ、土のにおいが」と譲らず、空に顔を向けた。
1945年8月6日。幾千もの針が体に刺さるような衝撃と爆風。一切の光を失った。「目が見えん。助けて」。叫びも無数のうめき声にかき消された。知らない人にしがみつき必死に逃げた。
当時26歳。前を歩く人が「B29じゃ」と言って空を見上げた瞬間だった。草津本町の自宅から愛宕町の知人宅に向かう途中。夫とその母、長男、長女の家族5人の食料を分けてもらいに行っていた。
倉敷市の病院で12月まで入院した。両目にガラス片と鉄くずが入り、治療は困難といわれた。広島に帰る列車の乗換駅。付き添ってくれた母がつぶやいた。「飛び込めば楽になれる。一緒に死のう」。臨月だった。「この子を殺せん」。トメ子さんは、泣きながら首を横に振った。
生活は困難を極めた。乳房を赤ん坊にくわえさせられない。表情を指先で探った。煮炊きで何度も前髪を焦がした。30歳から盲学校で点字とマッサージ術を学ぶ。2年後に整体治療院を開業し、必死に働いた。
夫は20年ほど前に先立った。献身的に支えてくれた。失明は「天命」と受け入れてきた。一つだけ心残りがある。胎内被爆した美津枝さんたち、戦後に産んだ3人の子どもの顔を知らない。孫は14人と、ひ孫は22人になった。
トメ子さんが「あの日」のことを、「あの場所」から伝えたい、と訪れた松原町。美津枝さんは「医学が進歩したなら片方の目をあげたい。私の顔を見てほしい」と涙ぐんだ。
(2009年8月7日朝刊掲載)
原爆に光を奪われた。ガラス片を浴びて失明した。音やにおい、そして指の感覚を研ぎ澄まし、5人の子どもを育てた広島市西区草津本町の福地トメ子さん(90)。6日、爆心地から約2キロ、人生が一変した南区松原町に64年ぶりに立った。被爆した日、おなかにいた次女の寺田美津枝さん(63)=安佐南区=が寄り添う。「はぐいい(悔しい)」。ぎゅっと娘の腕をつかんだ。
午前6時20分すぎ。ビルや民家が密集する松原町で、トメ子さんは「土のにおいがするよ。あの日みたいな」と言った。「今はアスファルトだから、しないよ」と美津枝さん。トメ子さんは「するよ、土のにおいが」と譲らず、空に顔を向けた。
1945年8月6日。幾千もの針が体に刺さるような衝撃と爆風。一切の光を失った。「目が見えん。助けて」。叫びも無数のうめき声にかき消された。知らない人にしがみつき必死に逃げた。
当時26歳。前を歩く人が「B29じゃ」と言って空を見上げた瞬間だった。草津本町の自宅から愛宕町の知人宅に向かう途中。夫とその母、長男、長女の家族5人の食料を分けてもらいに行っていた。
倉敷市の病院で12月まで入院した。両目にガラス片と鉄くずが入り、治療は困難といわれた。広島に帰る列車の乗換駅。付き添ってくれた母がつぶやいた。「飛び込めば楽になれる。一緒に死のう」。臨月だった。「この子を殺せん」。トメ子さんは、泣きながら首を横に振った。
生活は困難を極めた。乳房を赤ん坊にくわえさせられない。表情を指先で探った。煮炊きで何度も前髪を焦がした。30歳から盲学校で点字とマッサージ術を学ぶ。2年後に整体治療院を開業し、必死に働いた。
夫は20年ほど前に先立った。献身的に支えてくれた。失明は「天命」と受け入れてきた。一つだけ心残りがある。胎内被爆した美津枝さんたち、戦後に産んだ3人の子どもの顔を知らない。孫は14人と、ひ孫は22人になった。
トメ子さんが「あの日」のことを、「あの場所」から伝えたい、と訪れた松原町。美津枝さんは「医学が進歩したなら片方の目をあげたい。私の顔を見てほしい」と涙ぐんだ。
(2009年8月7日朝刊掲載)