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原爆の惨状つづる日記 ハワイ在住 三輪さん保管

■記者 鈴木大介

 広島市西区で幼少期を過ごし、米・ハワイ州で銀行の副頭取を務める三輪文雄さん(78)が、終戦前後の日記帳を自宅で見つけた。当時14歳の軍国少年は、原爆で古里を焼き尽くした「敵国」への怒りや敗戦を受け入れきれない心情をつづっている。太平洋戦争の終結から15日で64年。日記を読み返し、自らの心の軌跡をたどり直している。

 日記帳は今年2月、ハワイの自宅に保管する古い書類の中から見つけた。1945年当時は広島高等師範付属中(現広島大付属高)2年生。豊田郡戸野村(東広島市)に農村動員された7月4日から約3カ月間つづった。

 原爆が投下された8月6日は「(B29爆撃機が)爆撃したのを目撃した。(中略)あの憎らしい胴体を見よ。我(われ)に一機の戦闘機さへあれば」と悔しがり、「敵機は広島を焼夷(しょうい)攻撃したとの事である。(中略)父母の事が気にかかる」と記す。

 玉音放送についての記述では「敵を駆逐するのに、何よりも大切なものは、我ら若き学徒の力」と訴え、敗戦を受け入れようとしていない。親と姉の暮らす西区横川町へ帰省したのは翌16日。家族は無事だったが、自宅は消えていた。「見渡す限り灰である。よくもこんなに」と米国への憎悪を燃やしている。

 ハワイ帰りだった父から「米国の強さの源を確かめてこい」と勧められ、47年に渡米。憎しみを胸に秘め、皿洗いなどをしながら高校、大学へ進学。証券会社や銀行を経て、3年前に仲間とハワイで商業銀行を設立した。

 三輪さんは「この国は誰にも平等にチャンスをくれた」と米国社会へ感謝。若き日を振り返りながら「憎しみを超え、互いを理解し合う努力が平和につながる」と和解の大切さを訴えている。

(2009年8月15日朝刊掲載)

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