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白系ロシア人の軌跡 忘れられた被爆の苦難

■編集委員 西本雅実

 「唯一の被爆国」。政府や広島・長崎両市、被爆者団体もメディアも、この言葉をよく使う。確かに日本だけが原爆に遭ったが、未曾有の体験は日本人だけではない。植民地統治された韓国・朝鮮人、北米・南米から親の郷里へ送られた日系子弟、ドイツ人神父、インドネシアなどからの「南方留学生」、中国人留学生・労働者、米兵捕虜…。亡命した白系ロシア人も広島で被爆した。国と歴史のはざまに押し込められ、忘れられた被爆者を追った。

 「純欧風式 ロバノフ洋服店」の看板を背に家族とみられる5人が立つ。日米開戦の翌1942年まで広島市猿楽町(現中区基町)で写真館を営んだ松本若次さんが撮り、遺族が中国新聞を通じて市へ昨年冬に託したプリント群に含まれていた。「被爆したのでは?」。この1枚の写真が見つかったのを機に、原爆資料館啓発担当の協力を得て取材を始めた。

 「父の兄がロシア人に店を貸していました。この先です」。広島最大の繁華街である中区紙屋町に住み続ける城坂和子さん(73)がロバノフ洋服店を覚えていた。父、三村昇一さん(80年に84歳で死去)が作成し、今も慰霊祭を営む旧研屋町住民の「原爆犠牲者名簿」を保存していた。

 店は爆心地から北東に約400メートル。「あの日」消し去られた93世帯に及ぶ住民の姓名が続く中に「白系露人 ロマノフ 外4名」とあった。

 三村さんは研屋町を含む袋町学区の警防団役員。当日朝たまたま市郊外の可部町(安佐北区)に出向き助かったが妻と次女を失う。三女の和子さんは学童疎開していた。町内の疎開状況も熟知していた三村さんは、住民の遺体確認に当たり、犠牲者の名を早くから書き留めたという。

 ロバノフの名前は袋町小の1936年卒業名簿にもあった。児童名は「セリギロバノフ」、保護者名は「パーベルロバノフ」。

 同じ組だった福井健二さん(85)=安佐南区=は、「セリギは卒業後はハルビンへ行ったと思う。復員後間もなく本通(中区)で声を掛けられ、そう話していた」と記憶する。ハルビンは日本が支配した満州(現中国東北部)の主要都市であり、ロシア革命(17年)に対抗した「白衛軍」や家族らの亡命中継地。一家のなかでセリギさんは被爆を免れたとみられるが、その後ははっきりしない。

 福井さんは「袋町小の前でロシアパンを売っていた男性もロバノフ洋服店によくきていた」と言及した。市が1971年刊行した「広島原爆戦災誌」第1巻に「白いヒゲのパン屋が被爆」と表されるポール・ボルゼンスキーさんだ。市に照会すると、かつての家主が1970年に「原爆死没者名簿」に登載を申請していた。住んでいた上柳町(中区橋本町)で被爆し、死没は「8月6日」とあった。

 だが、ボルゼンスキーさんら単身者を含め5家族9人の白系ロシア人は、「終戦」後に帝釈峡の旅館に移されていた。「警察から頼まれ、おふくろが引き受けた。白いひげの男性もいた」と、庄原市の佐々木務さん(86)は証言する。秋まで滞在し、神戸や東京にそれぞれ向かったという。

 「ボルゼンスキーは、神戸にあったドイツ系の病院に入り間もなく死にました。帝政ロシアの駐日代理大使を務めたアブリコソフが回想録に書き残しています」。青山学院大にピョートル・ポダルコ准教授(45)を訪ねると、9人の亡命から被爆までを語った。1989年の大阪大大学院留学を機に亡命ロシア人らの研究を続ける。ロシア科学アカデミー東洋研究所の機関誌に2002年「ロシア人の被爆者」と題する論文を母国語で公表した。

 「白衛軍の大佐だったというボルゼンスキーは『命を惜しまず戦ったロシアはない。死ぬのであれば受け入れる』と言い残したそうです」「ウラジミール・イリーンも白衛軍に参加していた。被爆後は神戸のモロゾフ企業で再び働き、助かったことを『不幸における幸せ』と話していた」

 やはり反革命軍の将校だったフョードル・パラシューチンさんは、ソ連の国籍を戦後も選ばなかったため、祖国に残した一人娘と神戸で再会を果たせたのは63年後。神戸新聞1982年4月16日付に「涙の対面」が報じられている。その2年後に89歳で亡くなっていた。

 革命、亡命、異郷の地での被爆…。白系ロシア人被爆者は歴史の渦に翻弄(ほんろう)され、その後も苦闘が続いた。

 1926年から1943年末にかけ、広島女学院の音楽教師だったセルゲイ・パルチカフさんの家族4人は米国移住を選択。1986年に母校の創立100周年に招かれた、長女のカレリア・ドレイゴさんは西海岸ロングビーチにいた。「6月に88歳となったけれど元気よ」と、張りのある声で国際電話に応じた。

 「父は米陸軍でロシア語を教えたが、50歳を過ぎてまた別の国での生活再建は大変でした。私も3人の子育てで忙しく、原爆のことは努めて忘れようとしてきた。他人には今も話しません」。日系人とは進んで交流するが、在米の日系被爆者は一人も知らないという。被爆前と再訪した広島の思い出を快活に語り、最後にこう答えた。「原爆は悪夢。核兵器を使うのだけは絶対に反対です」

 原爆慰霊碑には、父セルゲイさん(1969年に76歳で死去)と母アレキサンドラさん(1985年に87歳で死去)も眠る。カレリアさんが再訪の折に「原爆死没者名簿」への登載を申請した。フョードルさんは被爆者健康手帳を唯一持っていたことから、手続きがとられていた。1970年に入っていたボルゼンスキーさん。その4人を除けば、白系ロシア人の被爆は今も公的には「空白」のままである。


ポダルコ准教授に聞く 核兵器の残酷さ物語る

 青山学院大国際政治経済学部のピョートル・ポダルコ准教授に、白系ロシア人の被爆や原爆投下をめぐるロシアでの受け止め方について聞いた。2004年から同大で教え、「来日ロシア人研究会」の代表も務める。

 旧ソ連時代から広島・長崎を知らないロシア人はいません。学校や市民講座でも惨状を必ず教えます。しかしロシア人の広島での被爆は私が公表しても日露関係の専門家に限られている。亡命ロシア人は「反ソ連」とみなされ、日本亡命者の研究も始まったのは1980年代のペレストロイカ以降です。

 米軍の原爆投下は無残な決断であり、ソ連も標的にする悪意ある行為が一般的な受け止め方。悲惨な目に遭いながら、日本はなぜ米国があんなに好きなのか分からない、原爆投下を許しているのかと思う人も多い。

 日本人の対露感情は領土問題もありよくないが、ロシア人は日本に親しみを持つ。白系ロシア人の在留は戦前に千人を超え、日本の音楽教育や食文化などに豊かな影響を与えた。国対国ではなく個人の営みに着目するべきでしょう。ロシア人の被爆は互いに知られていい。非戦闘員の一般市民が犠牲となり、日本人もロシア人も大変な思いをして生き延びた。核兵器の残酷さを考える大事なポイントだと思う。

(2009年8月2日朝刊掲載)

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