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社説・コラム

新作に挑む「ズッコケ三人組」著者の那須正幹さん

■記者 村島健輔

 「ズッコケ三人組」シリーズで知られる児童文学作家の那須正幹(まさもと)さん(65)=防府市=が、戦後の広島を舞台にした新作の取材を続けている。作家としての「集大成」と位置付ける作品は、原爆で夫や子どもを失った女性が開いたお好み焼き店の三代記だ。3歳の時に被爆し、原爆をテーマにした作品も送り出してきた那須さんが、「もう一度広島をしっかり書きたい」という思いで取り組む新作は「自分史」とも重なるという。

 「ごぶさたしています」。さわやかな風が吹き抜けた4月下旬の午後、那須さんは広島市中区千田町のお好み焼き店「大野」を訪れた。2004年に出版した「広島お好み焼物語」で取材した、大野紫折(しおり)さん(77)に会うためだ。

 お好み焼き店を始める前、駄菓子店だった1955年ごろの店の様子を聞いた。大野さんが用意した当時のアルバムをめくりながら、ノートにペンを走らせる。キャラメルやかき氷、商品の内容を那須さんは自身の記憶を交えながら尋ねた。

 新作は、戦後間もない49年、広島市西部の街己斐を舞台にスタートする。駄菓子店を営む主人公は原爆で夫と娘を失い、逃げる途中で出会った女の子を実の娘のように育てている。後に主人公はお好み焼き店を開業。娘、孫につながる三代記を書くつもりだ。

 なぜ、集大成の作品が戦後史なのか。那須さんは「みんな戦争はこりごりと言っていたのに、いつの間にか世の中は『いつか来た道』を歩もうとしている。それはなぜなのか、という思いが原点にある」と説明する。

 42年生まれの那須さんにとって、戦後史は自身の歩みとも重なる。

 3歳の時、現在の西区己斐本町にあった自宅で被爆した。屋根が半分吹き飛んだが、爆発の瞬間の記憶はない。降りだした雨を避けるために隠れた自宅の押し入れにあった教科書の桃太郎の挿絵がなぜか記憶に残っている。自宅前の国道を避難する人たちが、泥人形のように見えたのも脳裏に焼き付いている。

 大学を出て東京で2年間、車のセールスをした後、広島市の実家で書道塾を手伝った。姉に誘われ、広島児童文学研究会に加わり、児童文学の世界へ入った。児童文学研究会の同人誌「子どもの家」は、被爆体験を児童文学で受け継ぐことを目指していた。でも、自身は継承の文学には消極的だった。「僕も被爆者。ピカの話を聞いて育った。被爆体験を素材にした作品に関心はなかった」

語り継ぐ決意

 その「こだわり」が消えたのは、新たな命の誕生がきっかけだった。

 81年、39歳で長男が生まれた。妊娠が分かった時から、放射線の影響が出るのではないかとの危惧(きぐ)が頭の隅にあった。生まれるとすぐ、医師に異常がないか確認した。

 未来へつながる命を実感し、「あの事実を伝えねばならない」とヒロシマを語り継ぐ決意をする。そのころ、東京に住む児童文学者の先輩と出会った。「被爆者なんだから、そろそろ(原爆について)書きなさい」と背中を押された。出版社からノンフィクション作品の依頼が来ていた。帰り道、「原爆について書こう」と決めた。

 テーマとして思い浮かんだのは、体の回復を願い、ツルを折りながら亡くなった佐々木禎子さんのことだった。那須さんと同い年の禎子さんは2歳で被爆。白血病のため12歳で亡くなり、幟町中の同級生たちは原爆の子の像を建立した。

 実は、那須さんにはもっと身近な体験があった。中2の時、同級生の女の子がやはり白血病で亡くなった。亡くなる1カ月前の見舞いで、色が黒く丸顔で元気そのものだった少女が別人のようにやせこけてしまった姿に衝撃を受けた。新聞などで禎子さんや建立運動の記事を目にするたび、「同じように同級生を原爆で失った僕たちは、何もしなかった」と負い目を感じていた。

 高1の時に、原爆の子の像は完成した。感動したその思いを日記に残した那須さん。でも、同じ高校には、禎子さんのかつてのクラスメートもいたのに、学校で禎子さんや像の話題が出ることはまったくなかった。その疑問を解いてみたいとも思った。

 84年、2年をかけ完成させた「折り鶴の子どもたち」が出版された。

 禎子さんが亡くなるまでと、原爆の子の像完成までの二部構成。二部では、通夜の夜に同級生の会話から生まれた、きのこ雲の形をしたお墓を建てようというアイデアがやがて、像の建立運動へと結びつく。運動は広島市全体の小中高校を巻き込んだ。運動が拡大するなか、同級生は運動の主流から外れ、利用されているだけではとの思いを抱き、仲間に亀裂が入るようになる。

 序幕式でも同級生たちは喜びと同時にむなしさを感じた。「おとなの思惑におどらされたのでは」との思いが募り、マスコミに追い回されることで同級生たちは無口になっていく。

 ストーリーには、同じように白血病で亡くなった那須さんの同級生の話や、赤血球の数に異常があるとして精密検査を受けた自身の体験も盛り込んだ。「禎子さんだけが特別なのではない。広島には同じように傷つき、命を失った子どもがたくさんいた。そのまわりには突然の死に衝撃を受けた多くの友だちがいた。その事が作品に欠かせない」と思ったからだった。

改憲に危機感

 出版後、禎子さんの同級生たちから「よく書いてくれた」と感謝された。「同世代の自分でなければ書けないものだった」と手ごたえを感じるとともに、ヒロシマは一冊では書ききれないとの思いも深めた。

 戦後の日本は、自らが起こした戦争の傷跡を振り返り、二度と戦争はしないとの思いを新しい憲法に盛り込んで再出発した。しかし、歴史にはジグザグがつきものというべきか、60歳を過ぎたころ、その憲法を変えようという動きが目立つようになってきた。

 「戦争をしないと世界の人たちに誓った憲法9条を、ここにきて変えようとする日本。そうなった背景には、憲法とともに歩き続けた僕にも責任がある」

 作品を通して思いを伝えるだけでなく、自ら行動にも移すようになった。日本児童文学者協会の会長を務めるかたわら、憲法9条を守る市民組織・9条の会山口の呼び掛け人となり、防府・9条の会の世話人にもなった。4月に児童文学者らで結成したばかりの「子どもの本・9条の会」のメンバーにも加わった。

 那須さんは「被爆当時3歳だった僕は、かすかでも原爆の記憶がある最後の世代」と自覚する。

 自ら書いたエッセーの中で、平和が続くための条件として子どもたちに「きみたちの一人ひとりが、戦争を体験した世代と同じように、いや、もっと強力に『戦争は絶対にいやだ』と、大きな声で叫び続けることだ」と記した那須さん。「時代に翻弄(ほんろう)されてきた広島の庶民」の物語を通して、戦後世代の責任を果たすつもりだ。

なす・まさもと  1942年、広島市に生まれる。45年8月6日、自宅で母親に背負われている時に被爆。頭に軽傷を負った。65年、島根農科大(現・島根大農学部)を卒業。70年に最初の長編作品「首なし地蔵の宝」が学研児童文学賞に佳作入選。78年に第1作を出し、2004年に50作で完結した「ズッコケ三人組」は、小学生を主人公に身近な出来事や冒険、旅などを通して、子どもたちの友情を描いたシリーズ。累積発行部数2100万部を誇る。  戦争や原爆をテーマにした作品は、「折り鶴の子どもたち」(84年)のほか、「屋根裏の遠い旅」(75年)「絵で読む 広島の原爆」(95年)「八月の髪かざり」(06年)などがある。

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